小山 觀翁(こやま かんおう)
当社スタジオにて録音中の小山観翁氏です。【小山語録】
その1 「歌舞伎座百壱年目に」
その2 「襲名ってナニ?」
その3 「学校で教えないこと」
その4 「ダンキクサイと呼んで」
その5 「耳でみたカブキ」

【初解説】      1975年11月 弁慶上使
【プロフィール】  園田栄治 筆
 全盛期の三世中村梅玉に心酔して、激しい空襲のなかを、命がけで芝居見物したという経験の持ち主。
 それもそのはずで、物心ついたときすでにして見巧者であったというこの道の”神童”である。
 戦後の混乱のさなか、学習院大にいた時、日本文化の荒廃を憂えて学生歌舞伎を興した。
 「良い客になるため」の経験の場として、実際に舞台を踏んでみるのがよい、という貴重な伝統を大学に残した。
 電通でラジオ・テレビのディレクターとして鳴らし、そして伝統文化を守る高級料理店「小山亭」亭主をへて、現在にいたる。
 古老と呼ぶにふさわしい、まさに文人墨客の風格があり、芸を見る眼の確かさは斯界随一といって過言でない。
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【経歴】
昭和4年(1929年)東京生まれ
 学習院大学卒業
 株式会社電通勤務(昭和27年〜50年)
昭和50年11月より歌舞伎同時解説イヤホンガイド・レギュラー創始解説者

平成元年 郵政審議会委員
平成4年 衛星劇場TV番組審議委員
平成8年 ムービーチャンネルTV番組審議委員
平成9年 伝統文化放送番組審議委員

平成12年 12月歌舞伎座「蘭蝶」 監修

毎年の初芝居テレビ生中継放送番組・歌舞伎特集番組など
テレビ・ラジオ出演多数

伝統歌舞伎懇話会 会長
江戸勘亭流書道  家元

国立劇場 講師
松竹 顧問
日本演劇興行協会理事
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【著書】
『歌舞伎、「花」のある話』(光文社知恵の森文庫)
『痛快! 歌舞伎学』(集英社インターナショナル)
観客の芸談
古典芸能の基礎知識 (三省堂選書95)
歌舞伎のわかる本 (廣済堂ブックス)
歌舞伎の雑学 (グラフ社シリーズ3)
落語鑑賞の基礎知識 (三省堂選書112)
落語の雑学 (グラフ社シリーズ9)
古典芸能うけうり指南 (三省堂選書126)
歌舞伎案内 (グラフ社ふくろうブックス)
江戸=現代に続く粋の原点 (グラフ社ふくろうブックス)
三人寫楽謎錦絵 (旺文社)
落語鑑賞学入門 (弘文出版)
歌舞伎鑑賞学入門 (弘文出版)
歌舞伎通になる本 (グラフ社)

【共著】
落語文化史 (朝日新聞社)
日本古典音楽体系 (講談社)
原色歌舞伎詳細 (グラフ社)
江戸時代と近代化 (筑摩書房)
対談落語芸談 (弘文出版)

「演劇界」「歌舞伎座筋書」「歴史読本」「邦楽の友」などなど連載多数
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【江戸勘亭流】
郵政省・シリーズ切手「歌舞伎」題字
郵政省・ふるさと切手カレンダー題字
東京新聞・皇太子御婚約祝賀「寿」「幾久しく」題字
東京新聞・「辛言苦言」欄題字
文楽協会記録映像「人間国宝・吉田玉男の世界」「文楽人形のいのち」題字
東芝EMI「芳村五郎治長唄大全集」題字
書芸新潮社展覧会・特別出品
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【小山語録】 その1 「歌舞伎座百壱年目に」 〜1989年 筆〜
 歌舞伎座も、いよいよ百一年目に入った。

 昨年、十一月二十二日が「満百年目」の当日で、正しくは、その日から、百年目がスタートしたことになる。

 劇場側でも、その日のために、特製の切符を作ったが、これは、のちには大変な値打ちものになるだろう。

 筆者は、その「正百年目」の当日に舞台から皆さんに、お話しする大役を仰せつかった。

 「二百年目」に、誰がこの舞台に立って、そういう話をするのかは、わからないが、すくなくとも、二百年のその日に、歌舞伎座に居合わせるはずの人は、まだまだ用意されていないことになる。

 明治二十二年十一月二十二日に、舞台に立ったのは、團菊左(だん・きく・さ)らの名優たちだが、その正百年目の当日に、小山なんていう者が、舞台でしゃべるなどと一体だれが想像しただろう、と考えると、縁の不思議さを思わずにはいられない。

 昭和十六年九月に、大阪から三世中村梅玉(ばいぎょく)という名女形が東上し『酒屋』のお園を演じたとき、隣席にいた芝居通の祖母が、
「大阪の人は芸がこまかいネ。梅玉が、土間へ、のみさしの湯飲みの湯をすてるところをごらん。あの傾け方でしゅうとさんに、どのくらいのお湯をのませたのか、わかるね…」
と、ささやいた。

 このとき私は、「芝居には、そういう見どころもあったのか」と気がついた。

 いま思えば、これがイヤホンガイドの発祥であったし芝居に対する開眼であった。

 そして、その日から、出来れば日本一の芝居のわかる人になりたいと考えるようになったのである。

 一念発起して、当時一流の芝居通の門をたたき、昔の芸談に耳を傾けるようになっていった。

 やがて、学生歌舞伎というものを始め、自分で舞台にも立つようになる。

 実演を通じて、尾上梅朝(ばいちょう)、市川團之助(だんのすけ)など、いまや伝説上の古老たちから、したしく指導をうけることになった。

 舞台の裏と表から、芝居を見ることによって、これに生涯をかけた専門家の俳優というものが、いかに尊いものかを、身をもって知った。

 思いつきのように筆をとって、専門家を批評することが、いかに不遜なこころみであるかを知ったのである。

 私がいまも、劇評の依頼を断っているのは、そういうわけなのである。

 が、それでは、自分の手からは、何も生み出すことができないことになる。

 芸もせず、批評もしないのでは、家で寝ているのと変るところがない。

 芝居にとって、何の役にも立たない。

 イヤホンガイドは、そうした意味でまことに、私のために生まれ出たもののように思われる。

 そういう時期に、生まれ合わせたのだから、これも奇しき「縁」といえるであろう。

 歌舞伎座が、百一年目にむかって、はばたこうとするその日に、縁あって舞台に立たせていただいたが、もしかすると、それは、四十七年前、あの時の思いが、結願(けちがん)した瞬間だったのではあるまいかと、いまあらためて、驚きとともに思いかえしている。
【当社発行パンフレット「耳で観る歌舞伎」1989.1より】
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【小山語録】 その2 「襲名ってナニ?」
 「襲」というのは、「襲(おそ)う 「襲(かさね)る」と読みます。

 したがって、襲名とは、既存の名を名乗ることです。

 外国にも、○○ジュニア等の呼称がありますが、国王を除き、日本ほど襲名に権威を托する例は世界でも極めて稀だといえましょう。

 それは、天皇家の百二十五代を頂点とする日本民族固有の文化の一種と考えられます。

 近世でも、徳川将軍は十五代二百六十余年の命脈を保ち、この稀代の安定政権下に、武士、町人ともに世襲を信用の根本としました。

 何事も、先例故実を尚び、祖先を大切にすることで、社会秩序の維持がはかられました。

 こうした社会制度のもとで、歌舞伎芝居も家柄が重んじられ、お客も世襲、役者も世襲という仲で、お互いが持ちつ持たれつ共存共栄したのが実情でした。

 たとえば、近江屋の初代が、初代の仁左衛門を贔屓(ひいき)にすれば、倅の二代目は自動的に二代目仁左衛門の贔屓になりました。

 贔屓客の子は、役者の子と幼友達ということになり、成人すれば若旦那、大旦那となるまで、その仲は変わりません。

 双方ともに信用を築くことになります。両者の間には一種の責任感さえ存在したといいます。

 贔屓とは「貝」の字が四つも使われていますが、貝は通貨のことですから、経済的な余裕がなければつとまらず、それ自体が信用につながりました。

 一方、これを受ける役者も自己の知名度や人気を武器として、贔屓客の企業のイメージアップ等に全力を尽して協力しました。

 これが、ただの「ファン」との著しい違いなのです。

 そこで、昔の由緒ある町人の家では、襲名披露をする習慣があり、これがステータスシンボルの役割をはたしたし、役者も同様でした。

 近代化の中で、旧家の維持が、必ずしもメリットを生まなくなって、一般の市民の中からは、この習慣が消えていきましたが、ひとり歌舞伎役者の中は、いまも重大な行事としてのこされました。

 「襲名披露興行」は、日本人の”お馴染み好き”も手伝って、先代を懐かしむ観客や、襲名者の前途を祝福する観客によって、芝居を上昇気流にのせる、大切な役割りをはたしています。

 とりわけ人気のあるのが「披露口上」です。

 口上とは「もうしたてまつる」の意、幹部俳優が総出で居流れる一大イベントです。

 戦争中は遠慮のため略されましたが、昭和二十四年、八代目幸四郎の際に復活、以後は吉例となっています。

 昔は、本人は無言が普通でしたが、最近は、お客の要望もあって、自ら発言し、挨拶するようになりました。

 なお、「何代目」が正しいと古老からききました。「代」で切るのは将軍様など高貴な人で、一般町人は、「目」をつけるのが本当なのだといいます。
【当社発行パンフレット「耳で観る歌舞伎」1999.10より】
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【小山語録】 その3 「学校で教えないこと」
 暑さ寒さも彼岸までなどと申しますが今年の夏は、暑かったり寒かったりでしたね。

 私は、九月は「八幡祭」と「蚊喰鳥」を、ご説明しております。(*1977年9月)

 ともに、見ればわかる、といえばそれまでの芝居ですが、それで筋はわかるにしても、芝居を見る場合に、現代劇と違って、その時代の生活感覚を持つか持たぬかでは、面白味が変ってまいります。

 たとえば「猪牙(ちょき)」という舟があります。

 細長い、スピードは出るが、不安定な小舟です。

 これが、タテ何尺ということは、調べればすぐわかる。

 けれども、大切なのは、この猪牙舟の機能であって、猪牙というものの印象を、「早い」→「短い時間」と受けとることが、とりもなおさず、江戸時代の生活感覚なのであります。

 「猪牙の蒲団も夜露にぬれて……」と、小唄にありますのは、つかの間の逢う瀬をあらわすのですが、そういうことは、いまでは理解しにくいとみえて、舟をこぐように振り付けする舞踊家が現れたりします。

 こういう時に、イヤホンガイドを使っていただければ、間違った解釈は未然に防げるわけであります。

 私の解説は、学校で教えないワルーイことを、そっとお教えすることもあります。
【当社発行パンフレット「耳で観る歌舞伎」1977.9より】
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【小山語録】 その4 「ダンキクサイと呼んで……」
 古老川尻清潭氏の話に、同氏の父君川尻宝岑氏のところへ九代目から二百円の借金を頼んで来た。

 父祖代々の鼈甲屋さんのことゆえ、裕福を見込んでの頼みですが、お父さんは、清潭少年を呼んで「お前も役者をひいきにするなら、こんなことも覚えておくがいい」と云って、のし袋に五十円入れ、使いに持たせたということです。

 二百円貸せ、と云うことは、五十円下さい、ということだ、これが以心伝心、ツーといえばカーだということなのでしょう。

 昔のごひいきは大変だったのですね。

 その團十郎が、「暫」をつとめて、楽屋へ戻ると、ごひいきが待っていた。

 やぁやぁとご挨拶があって、團十郎は、汗を拭うつもりで、何心なく白紙を顔にあてがった。

 これが、実に綺麗な押し隈になりました。

 お客が所望したので、サインして渡した。

 これが、こんにち皆さんが、役者の押し隈を珍重なさる始まりだそうです。

 たしかに、それ以前の押し隈というものは、見たことがありません。

 もし江戸時代に、これを発明していたら、こんにち、いろいろな名優たちをもっと身近に感じることが出来たでしょう。

 五代目菊五郎は、火事が大好きで、火事装束を一そろい身の廻りに置き、スワ、というと、これで完全武装して飛んで行くのが趣味であったそうです。

 この人は、よほど粋な人と見え、六代目が生まれたとき、それをしらせに来た人に、「その子は、仁木弾正が出来る顔か?」ときいたといいます。

 新東宝という映画会社がありましたが、この社長の大蔵貢さんは、信州の人だそうで、お母さんが、巡業中の五代目の「伊勢音頭」を見物し、「身不肖なれども福岡貢……」というのを聞いて、「これだッ!」と手を打って、自分の子供を「貢」と命名したのだそうです。

 よほど五代目に感心したのでしょう。

 なお、「ダンクサイ」と呼ぶのは、菊五郎が添え物のようにきこえて、礼を失します。

 芝居通ともなれば、必ず「ダンクサイ」と呼びたいものです。
【当社発行パンフレット「耳で観る歌舞伎」1979.5より】
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【小山語録】 その5 「耳で観たカブキ十五年」(1991年 筆)
 私の著書『古典芸能うけうり指南』(三省堂選書No126 入手困難)には、イヤホンガイドの創始期のことが、いろいろと書いてありますが、それによると、昭和五十年の夏、現在の久門社長と、有楽町のアラスカで会合したのが、私と、この仕事との初対面でした。

 とにかくテストを、ということで、九月十五日に、七代目幸四郎追善興行に上演中の『暫(しばらく)』に、同時解説をいれてみました。

 それまでにも、別の人材によって、テストをくりかえしたようですが、結局、私のやり方に落ちついたのだそうです。

 このとき、いろいろな形式が創案されたのですが、こんにち「前説(まえせつ)」といっている開演前の説明をつけることになりました。

 これは、開演中の説明では煩雑になるけれど、大事なことについて、やや高水準の解説をするものです。

 そこで、翌々月、十一月興行を期して、開始のはこびとなり、私は『弁慶上使(べんけいじょうし)』と『籠釣瓶(かごつるべ)』をつとめたのが、第一声となりました。

 ある方の話では、「数年前、先生の『関の扉(せきのと)』の解説をきいたら、”天下をのぞむ人物にしては、よく落し物をする。そそっかしい人で…”といわれたので、私は思わず吹き出したのです。しかし、それまで退屈だったその幕が、それ以後は、実にたのしい芝居に思えてきました」。

 むろん、解説していた私は、そんなことを計算していたわけではないのですが、実に思わぬことが縁になるものだと驚きました。

 その後、はからずも高円宮様にご愛用いただき、そのご縁もあって、皇太子様へとその輪がひろがり、歴代首相ご夫妻、政財界、文化人へと、ご利用者が日ましにふえ、ここに十五年の歳月が流れてゆきました。
【当社発行パンフレット「耳で観る歌舞伎」1991.2より】
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