| 【歌舞伎】 |
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| ■「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」 新橋演舞場 昼の部 |
油屋を舞台に
近松門左衛門が晩年に書いた名作『女殺…』は題名の通り、油屋を舞台や背景にしています。主人公、与兵衛の実家、河内屋は油屋ですし、相手役のお吉も油屋の女房です。河内屋の場面では、与兵衛が天秤棒(てんびんぼう)で油桶を担いで出てくるので、その姿に当時の油売りの様子がうかがえます。 |
菜の花や
さて、江戸時代の油は菜の花から種を取り、それを搾った菜種油が多くを占めていました。このお芝居の徳庵堤の場面では「野崎参り(全てのものに感謝をささげるために慈眼寺〔通称・野崎観音〕にお参りすること)」の出来事が描かれ、舞台には菜の花畑が見えます。また戦前に、野崎参りの様子を歌った「野崎小唄」という大ヒット曲があったそうですが、そのなかでも“ どこを向いても菜の花盛り ”と歌われています。さらに与謝蕪村(1716-1783)の「菜の花や月は東に日は西に」という句は、今の大阪市都島区に当たる毛馬村生まれの蕪村が故郷をしのんで詠んだと考えられています。このように、江戸の昔、大坂周辺は菜の花(稲の裏作)の一大産地であり、菜種油の大供給地でした。菜種油は大坂から各地へ船で運ばれ、江戸で使う油は主に大坂産だったそうです。 |

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油の種類と用途
ところで、油には菜種油などの植物性油の他に魚油(動物性油)や石油(鉱物性油)もあります。現代では料理用(食用)、燃料用、工業用、美容用(整髪等)と様々な用途がありますが、江戸時代の日本では、油は主に灯(あかり)をともすために用いられました。その灯油は菜種油が多かったのですが、他に魚油も使われ、怪談に出てくる化け猫が行灯(あんどん)の油を舐めるのは、それが魚の油だからです。また菜種油は天ぷらを揚げるためにも使われたそうです。
天ぷらが普及して
明治時代に入って、灯が行灯からランプに変わっていくと、使う油も石油になりました。さらに、ガス灯を経て、今ではもっぱら電気による照明です。菜種油は、明治に入ると、灯火用としては廃れてしまったのですが・・・。
天ぷらは、江戸時代には、屋台で商われ、いわゆるファーストフードとして人気があったそうです。それが明治になると専門店が生まれたり家庭でも作られるようになって、さらにポピュラーになったといいますから、天ぷらが普及したことで、菜種油は命脈を保つことができたとも言えるでしょう。 |
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| 【文楽】 |
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■「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」 国立小劇場 第二部 |
襖や屏風に絵を
お芝居はしがない絵師、浮世又平が、自身が描いた絵の奇跡により、土佐光起(みつおき)の名を許されるお話です。
「土佐」は水墨画など中国画の影響を脱した「大和絵」の代表的流派。「源氏物語絵巻」を描いた春日隆能(かすがたかよし)の孫が「土佐権守」に任ぜられ、土佐の姓をなのったことから、「土佐派」と呼ばれるようになったといいます。
土佐派は国風(純和風)文化に目覚めた平安貴族が邸宅の襖(ふすま)や屏風(びょうぶ)に大量の絵を必要としたことから栄え、平安朝から数百年間、宮中の「絵所(えどころ。絵画、デザインを管理)」を継ぎました。光起は江戸初期に実在した同派中興の祖で、「土佐派三筆」に数えられています。
朝廷御用と幕府御用
一方、今回のお芝居の序幕に出てくる狩野元信は「狩野派」の画家です。
狩野派は土佐派より数百年遅れてあらわれ、土佐派の大和絵に中国風のタッチを融合させた「漢画風」が特徴とされます。
江戸幕府が誕生すると、幕府の御用絵師として隆盛を極め、朝廷の「土佐派」とともに当時の日本画壇の二大流派を成したということです。
狩野元信は室町時代に、狩野派2代目として、同派が栄える基礎を築いたといいます。このお芝居は、元信の二百五十年忌に当てて書かれ、本来は彼のお話がメインです。
浮世絵の元祖
先にご紹介した土佐光起より40年ほど早く生まれた画家に岩佐又兵衛という人がいました。彼も土佐派の流れを汲み、「婦女遊楽図屏風」=国宝(奈良市の大和文華館で5月20日まで展示。切手にもなりました。)、「三十六歌仙」=重文などの絵が今も見られます。
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| 国宝・「婦女遊楽図屏風」(「松浦屏風」)(左隻) 大和文華館所蔵 |
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| 彼は浮世又兵衛とも呼ばれたことから、このお芝居がポピュラーになると、彼こそがお芝居の又平のモデルといわれるようになりました。また彼は大胆かつドラマチックな画風、流行りの風俗をテーマにしたこと、さらに「浮世」のニックネームから「浮世絵」の元祖ともされています。 |
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