歌舞伎・文楽ミニ知識 - イヤホン解説余話

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「奴道成寺(やっこどうじょうじ)」 巡業中央コース 松竹大歌舞伎

唄と語りのコラボ
舞踊『奴道成寺』の伴奏は長唄(ながうた)と常磐津(ときわず)という二つの流儀の掛合い、今風にいえばコラボレーション(ただし基本的に両者が合唱することはなく、交互に歌唱)です。   
長唄は芝居の黒みす音楽(BGM)や踊りの伴奏として歌舞伎で育った「唄もの」の、常磐津は義太夫節から生れた「語りもの」のジャンル。
唄は叙情、語りは叙事と大別されますが、次第に、両者の持ち味が近づいたところもあります。長唄の『勧進帳』などは「語り」色が濃く、逆に清元は「語りもの」ですが、亡き名人、清元志寿太夫師は、ご本の中で「清元を唄う」と語っておられるほどです。
競争と調和
とはいえ、なお味わいが違う長唄と常磐津の「掛合い」には、まず音色と見た目の華やかさがあります。舞踊『紅葉狩』などは義太夫節も加わる「三方掛合い」の豪華さ。さらにそれぞれの “ 売り ” をアピールしあう「芸くらべ」的おもしろさとその調和も魅力であり、聴きどころです。
他に掛合いが聴ける演目には、長唄と常磐津の『身替座禅』、長唄と清元の『喜撰』、長唄と義太夫節の『素襖落』、義太夫節と常磐津の『廓文章』、『双面水照月』、義太夫節と清元の『吉野山』などがあります。
三人三様を仕分け
この踊りでは狂言師が三つの面を使い、遊郭の人物、傾城(けいせい、遊女)、大尽(だいじん、客)、太鼓持(たいこもち、座持ちの芸人)を踊り分けるくだりで、掛合いの仕分けが充分に活かされ、効果的に踊りを引き立てます。

ことに、ここの結びの詞章「露をふくみし桜花 さわらば落ちん風情なり」では「露をふくみし桜花」を長唄、「さわらば落ちんフゥゥ」までを常磐津、「ゼェェ」を長唄、「イ」を常磐津と “ 風情 ” を分解。最後の「なり」を両者が合唱するという凝った仕分けで、その味わいは格別です。

 

流光斎如圭 画 「勝武革奴道成寺」 
 
「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」 国立文楽劇場 第一部

兜を見分ける
『仮名手本忠臣蔵』大序 では 「新田義貞が後醍醐の天皇より賜つて着せし兜。敵ながらも義貞は清和源氏の嫡流、着棄の兜といひながらそのまゝにもうちおかれず。当社の御蔵に納める条、その心得あるべし」と、義貞の兜を鶴岡八幡宮の蔵に納めるようにという足利尊氏からの厳命が伝えられます。これは「新田に徒党の討ちもらされ、御仁徳を感心し、攻めずして降参さする御方便」とあるように尊氏の計略でした。高師直の言うには「義貞討死したる時は大わらは。死骸のそばに落ち散つたる兜の数は四十七。どれがどうとも見知らぬ兜。」ということで、どれが義貞の兜か見分けがつきません。そこで、後醍醐天皇が新田義貞に兜を授けた時に、天皇の女官をしていた塩冶判官(えんやはんがん)の妻、顔世御前(かおよごぜん)が呼び出され、義貞の兜を見分けることになったのでした。
新田義貞(1300?~38)とはどのような人物で、討死した時はどのような状況だったのでしょうか?
清和源氏の嫡流
新田氏(上野源氏)は、河内源氏三代目の源義家の四男・源義国の長子の新田義重に始まり、新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)を開発しましたが、義貞の時代には鎌倉幕府では日の目を見ず、義貞自身も無位無官でした。これは、新田氏の祖である新田義重が源頼朝の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、幕府成立後には源義国の系統を束ねる棟梁としての地位が義重の弟足利義康の子足利義兼の系統に変移し、新田氏のみならず源氏の系譜を持った武士をその支配下に置くという慣例が定着したためであるという説があります。
義貞が1333年に稲村ヶ崎を渡り、北条高時らの鎌倉幕府を攻め滅ぼしたことはよく知られています。この功により、義貞は足利尊氏、楠木正成らとともに後醍醐天皇の建武政権に取り立てられます。
足利氏と対立
やがて、新田氏は武家の主導権をめぐって足利氏と対立するようになります。尊氏と義貞は「後醍醐天皇に反逆の意がある」と互いを非難し、成敗するよう訴えます。義貞に足利尊氏・直義(ただよし)成敗の綸旨が下り、義貞は天皇側の軍勢の総大将になります。義貞・楠木正成ら天皇側の軍勢は建武3年(1336)正月に一度は尊氏を九州へ追い払います。しかし、建武の新政で天皇からの恩賞に不満な武士の多くを味方につけた尊氏は九州を平定し、東上。足利氏は翌月には湊川の戦いで楠木正成を破って進軍し、義貞は敗走。足利氏は京都を奪還します。足利氏は比叡山に逃れていた後醍醐天皇と秘密裏に講和を進め、天皇は京都に帰還することを決意します。これを聞いて、義貞の家臣、堀口貞満は比叡山に登り、「義貞に知らせることなく、義貞から尊氏に気持ちを移す天皇の無節操」を泣きながらに非難します。
越前へ
義貞は恒良(つねよし)・尊良(たかよし)両皇子を戴いて、越前に下向します。建武政府の越前では国司に義貞の弟、脇屋義助、守護に堀口貞義が任命されましたが、内乱が始まってからは、足利方から斯波高経、ついで細川頼春が守護に補任され、新田方と抗争が続いていました。

建武5年(1338)5月、義貞は斯波高経の黒丸城(くろまるじょう)を包囲し、斯波方の城を次々と落としていました。同年閏7月、藤島城にたてこもる斯波方の平泉寺(へいせんじ)衆徒を新田軍が包囲、攻撃。義貞は応援のため50騎を率いて駆けつける途中、黒丸城から救援に来た細川出羽守・鹿草彦太郎の軍300騎に出くわし、歩射隊に田の中に追い落とされ、乱射された矢が当たり、自害したの

でした。義貞の首は切り離されて京都に送られ、都大路を引き回しの上、獄門に懸けられさらし首となりました
義貞の兜

300年以上後、江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上しました。象嵌(ぞうがん)が施された筋兜(すじかぶと:鎌倉時代後期から南北朝時代頃に発生した兜の一形式。星兜と異なり、兜本体(鉢)を形成する鉄板を接ぎ留める鋲(星)を見せず、鉄板の縁をねじり立て接ぎ目を筋状に見せたもの。)で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管されました。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納されました。

 筋兜

解説余話バックナンバー

 

2019年03月 「積恋雪関扉」国立小劇場

2019年02月 「暗闇の丑松」 歌舞伎座・「壇浦兜軍記」 国立小劇場

2019年01月 「廓文章」歌舞伎座・「二人禿」国立文楽劇場

2018年12月 「二人藤娘」歌舞伎座・「鎌倉三代記」国立小劇場
2018年11月 「実盛物語」平成中村座・「鶊山姫捨松」 大阪国立文楽劇場
2018年10月 「華果西遊記」大阪松竹座
2018年09月 「金閣寺」歌舞伎座 ・「増補忠臣蔵」国立小劇場

2018年08月 「盟三五大切」歌舞伎座 ・「日本振袖始」国立文楽劇場

2018年07月 「河内山」大阪松竹座 ・「卅三間堂棟由来」大阪国立文楽劇場
2018年06月 「平家女護島 俊寛」博多座 ・「絵本太功記」国立文楽劇場

2018年05月 「雷神不動北山櫻」歌舞伎座・「本朝廿四孝」国立小劇場
2018年04月 「絵本合法衢」歌舞伎座・「義経千本桜 道行初音旅」国立文楽劇場