「伊賀越の敵討ち」はルール違反?

伊賀越レベル 
★★☆
くまどりん
Facebook Twitter

@敵討ちの発端
ところで、この「伊賀越の敵討ち」、原因はなんだったのでしょう。
そもそも、河合又五郎と渡辺数馬は、同じ岡山藩主・池田忠雄に仕える、いわば仕事仲間。ところが又五郎が数馬の弟・源太夫を突如殺害しました。寛永7年(1630年)7月21日夜の出来事です。
当時又五郎は20歳、数馬は23歳。歌舞伎や文楽では、数馬に該当する和田志津馬はさわやかな風貌、又五郎に該当する沢井股五郎は憎憎しい風貌で演じられるのでなかなか気づきませんが、実は又五郎のほうが若いのです。殺された源太夫はまだ17歳でした。何をきっかけにこの事件が起こったのかはよくわかっていません。 源太夫は池田忠雄のお気に入りのお小姓さんでした。そのことから、又五郎も源太夫のことが気になっていたのに源太夫にすげなくされて、腹が立って殺害に及んだ、という説もあるようです。
ところが、『伊賀越道中双六』などのお芝居や講釈などの作り物になると、敵討ちの発端がかなり作り替えられてしまうのです。 というのは、『伊賀越』では、殺されたのは和田志津馬(史実の渡辺数馬)の弟ではなく、父の行家。沢井股五郎(史実の河合又五郎)は和田家から家宝の刀を奪い取るために行家を訪ねますが失敗し、とうとう殺害に

及びます。父を殺された志津馬は唐木政右衛門(史実の荒木又右衛門)とともに敵討ちの旅に出ます。史実では“弟の敵討ち”でしたが、『伊賀越』では“父の敵討ち”に変えられているのです。

A敵討ちのルール

では、史実の敵討ちが読み物や作り物になるにあたり、なぜこのような改変が行われたのでしょうか。
そもそも、敵討ちにはルールがありました。大きくまとめると、
@被害者が「殺された」場合のみ認められる
A討手は討たれたものの子や縁者のみ
という決まりです。
Aは、親の敵を子が討ち、兄の敵を弟が討つのはよいが、それが逆になるのは認められないということです。
また、敵討ちは勝手に行ってよいのではなく、奉行所などに届出をし、幕府の帳簿につけられて初めて認められました。もしも届出なしで敵討ちをした場合、殺人罪で逮捕され、敵討ちの証拠が出るまで釈放されなかったようです。
「伊賀越の敵討ち」は、兄の数馬が弟の源太夫の敵を討つものなので、本来なら出来ないはず。ただ、この事件の場合、藩主や又五郎の仲間の旗本たちを巻き込んだ大騒動に発展、岡山藩主池田忠雄が「又五郎を討て!」と遺言したことで、公的に認められたといういきさつがあります。
このような背景があるため、『伊賀越』などでは弟から父の敵討ちに物語を変えて、敵討ちへの思いをわかりやすくしているのかもしれません。
ちなみに、敵討ちのルールにのっとると、あの「赤穂浪士の敵討ち」も実はルール違反。浅野内匠守は刑罰として切腹したので、殺されたわけではなく、敵を討つなら内匠守の弟が先頭に立ってするべきでした。
とはいってもこの敵討ちが人々の賞賛を浴びたのは周知の事実。実際の敵討ちは、細かいルールはさておき、「恨みを晴らした」ことへの人々の共感が「三大敵討ち」を成長させていったのでしょう。


参考文献:
内山美樹子・延広真治編『近松半二・江戸作者浄瑠璃集』(新日本古典文学大系94、1996年)
尾崎秀樹「仇討の思想」(『季刊雑誌歌舞伎』9号3巻、1977年1月)
稲垣史生「仇討の実相 仇討の裏おもて」(『季刊雑誌歌舞伎』9号3巻、1977年1月)
長田午狂「実説・伊賀の仇討」(国立劇場芸能調査室編『伊賀越道中双六上演資料集』4号1967年3月)

 
閉じる