@敵討ちの発端
ところで、この「伊賀越の敵討ち」、原因はなんだったのでしょう。
そもそも、河合又五郎と渡辺数馬は、同じ岡山藩主・池田忠雄に仕える、いわば仕事仲間。ところが又五郎が数馬の弟・源太夫を突如殺害しました。寛永7年(1630年)7月21日夜の出来事です。
当時又五郎は20歳、数馬は23歳。歌舞伎や文楽では、数馬に該当する和田志津馬はさわやかな風貌、又五郎に該当する沢井股五郎は憎憎しい風貌で演じられるのでなかなか気づきませんが、実は又五郎のほうが若いのです。殺された源太夫はまだ17歳でした。何をきっかけにこの事件が起こったのかはよくわかっていません。
源太夫は池田忠雄のお気に入りのお小姓さんでした。そのことから、又五郎も源太夫のことが気になっていたのに源太夫にすげなくされて、腹が立って殺害に及んだ、という説もあるようです。
ところが、『伊賀越道中双六』などのお芝居や講釈などの作り物になると、敵討ちの発端がかなり作り替えられてしまうのです。
というのは、『伊賀越』では、殺されたのは和田志津馬(史実の渡辺数馬)の弟ではなく、父の行家。沢井股五郎(史実の河合又五郎)は和田家から家宝の刀を奪い取るために行家を訪ねますが失敗し、とうとう殺害に |