「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)白浪五人男(しらなみごにんおとこ)」
「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」
くまどりん
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「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ) 白浪五人男(しらなみごにんおとこ)」 歌舞伎座

日本駄右衛門のモデル
この演し物はお話としては日本駄右衛門(にっぽんだえもん)を頭(かしら)とする盗賊団が結成されて、さまざまな悪事をなし、最後には自害したり捕えられたりするというものです。この日本駄右衛門にはモデルがありました。尾張藩の下級藩士で七里役(しちりやく:下で詳述)を務めた浜島富右衛門の子として1718年に生まれた庄兵衛は、後に100人以上からなる盗賊団の首領として、東海道を荒らし回り、『風俗太平記』という浄瑠璃に出てくる盗賊の名をそのまま借りて、日本左衛門と名乗ったと言います。すなわち、この日本左衛門が日本駄右衛門のモデルです。
ちなみに三世歌川豊国(1786〜1864)が東海道五十三次を背景に役者絵を描いた『役者見立 東海道五十三驛』という錦絵のシリーズがあり、そのうちの「掛川」は 松本錦升が演じる日本左衛門 です。ただし、当時は老中、水野忠邦による天保の改革で贅沢が禁じられ、歌舞伎役者・遊女・芸者等の錦絵は売買が禁止されたため、絵の中に役者名は書かれていません。この絵を見ると鬘(かつら)は月代(さかやき:額(ひたい)の髪)の伸びた状態で浪人・病人・盗賊などに用いられた五十日鬘(ごじゅうにちかずら)となっていて、『弁天娘…』の日本駄右衛門もこのイメージに似ているので、ここからヒントを得たところもあったかもしれません。


三世豊国画『役者見立 東海道五十三驛』のうち
「掛川 日本左衛門」

尾張藩の七里役
江戸時代、尾張藩をはじめ、紀州藩、姫路藩などいくつかの藩は江戸との間に自藩専用の飛脚制度を設けていました。七里(約28km)ごとに七里役所という中継所を置き、二名ずつの七里役に藩の御状箱などを運ばせました。この飛脚組織を七里と言い、藩の文書を運ぶという重要な任務を帯びていたので、権威をかさに着てわがままに振る舞ったようです。七里役の中には宿役人に手が付けられないのをいいことに、無宿者などを大勢集めて、賭博をする者も多かったといいます。庄兵衛は、父が七里役であったので、そうした七里小屋に出入りして、自然と博奕を覚え、ゆすりたかり・盗みの悪に染まっていったものと思われます。庄兵衛はやがて父に勘当されて、無宿者になり、のちに盗賊団の首領となりました。
尾張藩に限らず、七里役はこのように横暴に振る舞っていました。それに手を焼いた各藩は、自藩の七里役に派手な印半纏を着せて、彼らが悪事を慎むことを期待しましたが、かえって威張り散らすことになってしまったとのことです。この派手な衣裳が、稲瀬川勢揃いの場の五人男の揃いの小袖のイメージにつながったのでしょう。

浜島庄兵衛の人相
浜島庄兵衛の一味は遠州見附宿(現在の静岡県磐田市)を根城としましたが、それはここが幕府直轄領で、大名領と比べると警備が手薄だったのを狙ってのことだったようです。一味の横暴はやがて幕府も見過ごすことができなくなり、1746年9月、火付盗賊改めの徳山五兵衛は庄兵衛一味の追捕を命じられ、翌10月には庄兵衛は人相書きとともに全国に指名手配されました。当時は手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみで、盗賊としては日本初の手配書でした。もはや逃れることができないと悟った庄兵衛は翌年正月に京都町奉行所へ自首し、江戸へ護送されました。幕府の厳しい取り調べを受けた結果、庄兵衛は3月に江戸中引き廻しの上、伝馬町の牢内で打ち首となり、その首は手下のものとともに一味の根拠地であった遠州見附宿で獄門に懸けられました。



『豊国漫画図絵 弁天小僧菊之助』

この全国指名手配書によると庄兵衛は 「背は175pくらい、150pくらいの小袖を着て、歳は29歳 見かけは31、2歳に見えた。月代が濃く、5pくらいの引き傷があり、色白で歯並びは普通、鼻筋が通り、目は切れ長で細く、顔は面長。 自分からは手を下さず、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗、金筋入りの半纏(はんてん)に黒縮緬の小袖を着、黒繻子(しゅす)の小手、脛(すね)当てをつけ、銀造りの太刀を佩き、手には神棒という6尺余りの棒を持ち、腰に早縄をさげた出立ち」 とのことなので、当時としては長身の、いい男で、派手な身なりをし、盗賊団の首領としての威厳を具えた、凄味のある人物であったようです。このお芝居では、「稲瀬川勢揃の場」で名乗っているように、40歳ということになっています。

弁天小僧のモデル
一方、主役の弁天小僧ですが、こちらは日本駄右衛門とは違い、モデルとなった歴史上の有名人は存在しないようです。二代目河竹新七(のちの河竹黙阿弥)が三世歌川豊国の錦絵『豊国漫画図絵』の中の「弁天小僧菊之助」の見立て絵を見て、『弁天娘…』の構想を練って作った人物であると考えられています。新七はこの若々しい人物を演じる役者に当時18歳の13代目市村羽左衛門(のちの5代目尾上菊五郎)を選び、この役は5代目菊五郎の、そしてのちには尾上菊五郎家代々の当たり役となりました。

 
「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」(文楽) 国立劇場

政略で縁組
これは全五段の、極めて複雑で雄大な物語ですが、上演する四段目の前提部分だけを、ご説明します。
まず武田・長尾(上杉)両家は、足利将軍を支える執権ですが、不仲であった。そこで和睦のため将軍の仲人で、武田信玄の子息・勝頼と、長尾謙信の息女・八重垣(やえがき)姫との縁組が決まりました。

植木屋こそ
ところが将軍が、種ヶ島の浪人に鉄砲で射殺されてしまう。この大事件の際、不在だったために、武田と上杉は嫌疑を受けた上、犯人逮捕もできなかった。その責任を問われて武田勝頼は切腹。許婚(いいなづけ)の八重垣姫は泣き暮らします。
ここから四段目に入り、温泉や諏訪大社のある諏訪湖畔が舞台です。その謙信の館に、花作り(植木屋)の美貌の若者が雇われた。実はこれこそ本物の勝頼で、切腹したのは偽者だったのです。

本物と知って
姫は喜び、紫の長裃の美しい姿を見て夢中になる。大名の姫君らしく上品優雅に、かつ大胆に恋心を訴えます。義太夫の名曲にのっての色模様。

追われる勝頼
さて長尾家は、武田家の霊宝・諏訪法性(ほっしょう)の兜を借りたのに返さない。勝頼はその兜を奪い返すため、花作りに化けて潜入したのです。しかし見破った謙信は、勝頼の殺害を命じます。塩尻峠へ出かけた勝頼を、討っ手が追って行く。


人形は身軽

さあ姫はこの危難を知らせたいが、陸を走っては追いつけない。「翼が欲しい羽が欲しい」とあせる。その焦燥感や恋心の激しさを特異な動きで表します。
そして姫が諏訪法性の兜に祈ると、諏訪明神のお使いの狐が現れる。その狐達に導かれ守られて、氷った諏訪湖を飛ぶがごとくに勝頼のもとへ…。諏訪法性の兜を手にしてからの八重垣姫は文楽では人形の身軽さが生かされ、人間では表現できない、飛ぶような激しい動きが見られます。


伝説を活かして

諏訪湖は氷ると、狐が渡り初めをしてから、人が渡るという。また氷の亀裂が盛り上って土手のようになる。これは「御神渡(おみわたり)」と言って、諏訪上社の神様が諏訪下社のお后(きさき)の女神のもとへ通う道だという。何ともロマンチックな言い伝えです。
このような伝説が巧みに活かされ、神秘的・感動的な幕切れとなります。ヒロインの八重垣姫は、『祇園祭礼信仰記』の雪姫・『鎌倉三代記』の時姫とともに三姫(さんひめ)と言われる中でも最も難しい大役です。
また将軍暗殺犯の正体は、美濃の斎藤道三。奇想天外より来る、奇抜な話や謎の人物・事件の連続する、近松半二の傑作です。イヤホンを通して、開演前に詳しくお話しします。




諏訪湖の御神渡

 
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