「身替座禅(みがわりざぜん)」 歌舞伎座 昼の部 くまどりん
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モデルは天皇?
『身替座禅』は山蔭右京という大名が、花子という女性との浮気をめぐって、怖〜い奥方と攻防を繰り広げるお話で、狂言の「花子(はなご)」を下敷きにしてつくられ、明治43年に初演されました。
その基となった「花子」は狂言のなかでも最高の秘曲とされ、滅多に上演されないのだそうですが、それはこの狂言が江戸時代初期の後水尾(ごみずのお)天皇をモデルにした一種の風刺劇だからだという説があります。天皇がモデルだから軽々しく扱えないというわけです。この説によれば、「花子」の原型は室町期に成立していたものの、江戸時代に入って、主人公を後水尾天皇に見立てるようになったのだといいます。

幕府VS 朝廷
後水尾天皇は1611年に16歳で即位。4年後、徳川幕府は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすと、今度は朝廷の伝統的権威を反幕府勢力に利用されることを警戒して「禁中並びに公家諸法度」を発布します。その結果、天皇は常に幕府に監視され、行動を大きく制限されることになりました。

後水尾天皇はこれに強く抵抗したため、幕府は二代将軍秀忠の娘で家康の孫の和子(まさこ)を入内(じゅだい、天皇に嫁ぐこと)させます。天皇25歳、和子14歳でした。しかしそれでも天皇と幕府の対立は止まず、やがて「紫衣(しえ)事件」、僧侶の最高位がまとえる紫衣を天皇が勝手に許したとして、幕府がこれを剥奪し、抗議した者を流罪にするという出来事が起き、これが引き金となって天皇は幕府に無断で退位してしまいました。



尾形光琳画「後水尾天皇像」

幕府のお目付け役
狂言「花子」の冒頭で主人公は「これは洛外(らくがい)に住まいいたす者にござる」と名乗ります。普通、狂言の名乗りは「この辺りに住いいたす…」とか「都に住いいたす…」というように場所がはっきりしません。ところが「花子」ではより限定された「洛外」と言い、これは京の左京区にあった後水尾天皇(退位後なので、正確には「上皇」)が住んだ修学院離宮を指しているのだとか。
したがって、狂言「花子」の大名は後水尾天皇(上皇)であり、奥方は江戸から輿入れした将軍秀忠の娘、和子=後の東福門院だというわけです。そう考えると大名が奥方を怖がるのもうなずけますね。天皇にとって、和子はいわば徳川幕府から差し向けられたお目付け役なのですから。

実際の二人は

後水尾天皇は退位した後も上皇として朝廷の権力を握り、幕府に反抗し続けたため、彼と幕府の関係は冷え切ったものでした。ただ後水尾は江戸から孤立無援の京都へ入内した東福門院和子を憐れみ、終始大事にしたようで、夫妻はいわゆる政略結婚ではありましたが、その仲は大変に良かったということです。
 
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