くまどりん イヤホン解説余話
Facebook Twitter
「魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)」 歌舞伎座 昼の部

怪談をリニューアル
『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』は、前半は通称『お蔦殺し(おつたごろし)』、後半は『魚屋宗五郎』と呼ばれ、今回は『魚屋・・・』のみの上演です。
今回上演されない『お蔦・・・』のパートの内容は次の通り:
磯部家の家臣 岩上典蔵(いわがみてんぞう)はお家乗っ取りを企んでいて、また殿様 主計之助(かずえのすけ)の妾(めかけ) お蔦に横恋慕していました。お蔦は典蔵に手籠めにされそうになりますが、家中の浦戸紋三郎に助けられます。典蔵は拒絶された腹いせとお家乗っ取りの企みを聞かれた口封じのために、お蔦に紋三郎と不義密通の罪を着せて拷問しました。典蔵の讒言(ざんげん)を聞いた主計之助は嫉妬と酒乱のあまり、お蔦を屋敷の井戸に斬り落とし、その井戸にはお蔦の幽霊が出るようになりました。
作者、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ) はこの『お蔦・・・』のパートを、それより140年ほど前の『播州皿屋敷』というお芝居を下敷きにして書きました。タイトルにある「新皿屋舗」は、その先行作をリニューアルしたという意味です。そしてこの『播州・・・』は有名な怪談「皿屋敷」をベースにしてつくられました。
一枚・・・二枚・・・
さて、その怪談「皿屋敷」は、いくつかバリエーションがあるようですが、基本形は、武家勤めする腰元のお菊が、家宝の十枚組みのお皿のうち一枚を過って割ってしまい(あるいは失くしたと濡れ衣を着せられ)、主人に折檻(せっかん)された挙句、井戸へ投げ込まれた。その後、お菊の亡霊が夜な夜な井戸から現われ、恨めしげに「一枚・・・二枚・・・」とお皿を数える、というものです。


新形三十六怪撰・皿やしき 於菊乃霊
月岡芳年 画

落語にも
この怪談を基に歌舞伎では前述の2作品の他に近年では岡本綺堂が『番町皿屋敷』を書き、また講談や映画にもなりました。それから落語にもこれをひねったネタ「お菊の皿」というのが、江戸風と上方風、二種類あります。その内江戸版「お菊の皿」の一席を少々端折りますが、ご紹介してみましょう。
◇ 九枚まで聞くと・・・
江戸っ子は物見高いと申します。野次馬根性ってやつでして、そんな江戸っ子の一人が「皿屋敷」の話を聴いて仲間を誘い、幽霊見物に乗り込もうということになりました。向かうは番町、今でいう千代田区番町です。
荒れた屋敷の井戸の前で連中が陣取っておりますと、果たしてお菊の幽霊が現れ、「一枚……二枚……」と皿を数えはじめます。これを九枚まで聞くと狂い死にするという噂があったんですね。連中、六枚まで聞くとソレッってんで逃げ出しました。
◇ アイドル並  
ご承知のように、お菊さんというのは大変にいい女でして・・・。くだんの連中もそんなお菊さんに惚れたのか、はたまたスリルが何ともいえなかったのか、あくる日もまた出かけました。
こんな調子で噂が噂を呼ぶというんでしょうか、やがて皿屋敷のあたりは毎晩大勢でごった返す。お菊はまぁアイドルみたいになってしまったわけでして・・・。
人間、そうなると勘違いしがちです。お菊さんも元は人間ですから、すっかり乗せられて客に愛嬌を振りまきはじめる始末。
◇ 逃げるに逃げられず
さて、その夜はいつにも増して客が多かった。その黒山の人だかりの中でお菊嬢のワンマンショーが始まりました。
いつものように「一枚……二枚……」と数え出し、いよいよ六枚目です。
客は逃げようとする。ところが凄まじい混雑、身動きがとれません。「七枚……八枚……九枚……」
ギャー !! 最後まで聞いちまったァ、と客から悲鳴があがります。ところが・・・
◇ 明日はお盆休み
「……十枚……十一枚……」、なぜか止まりません。そもそも皿は十枚組が一枚欠け、九枚しか残っていないはずなんですが・・・。
なんとお菊さん、十八枚まで数え上げ、澄ました顔で帰ろうとする。
あっけにとられる人ごみの中から声があがります。「なんで十八枚も数えたんだい?」
お菊は艶然と微笑んで「明日はお盆でございます。休ませていただきますので、その分まで…」

お後がよろしいようで・・・。
 
「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」 国立小劇場 第二部

油屋を舞台に
近松門左衛門が晩年に書いた名作『女殺…』は題名の通り、油屋を舞台や背景にしています。主人公、与兵衛の実家、河内屋は油屋ですし、相手役のお吉も油屋の女房です。河内屋の場面では、与兵衛が天秤棒(てんびんぼう)で油桶を担いで出てくるので、その姿に当時の油売りの様子がうかがえます。


菜の花や
さて、江戸時代の油は菜の花から種を取り、それを搾った菜種油が多くを占めていました。このお芝居の徳庵堤の場面では「野崎参り(全てのものに感謝をささげるために慈眼寺〔通称・野崎観音〕にお参りすること)」の出来事が描かれ、舞台には菜の花畑が見えます。また戦前に、野崎参りの様子を歌った「野崎小唄」という大ヒット曲があったそうですが、そのなかでも“ どこを向いても菜の花盛り ”と歌われています。さらに与謝蕪村(1716-1783)の「菜の花や月は東に日は西に」という句は、今の大阪市都島区に当たる毛馬村生まれの蕪村が故郷をしのんで詠んだと考えられています。このように、江戸の昔、大坂周辺は菜の花(稲の裏作)の一大産地であり、菜種油の大供給地でした。菜種油は大坂から各地へ船で運ばれ、江戸で使う油は主に大坂産だったそうです。

菜の花畑

油の種類と用途
ところで、油には菜種油などの植物性油の他に魚油(動物性油)や石油(鉱物性油)もあります。現代では料理用(食用)、燃料用、工業用、美容用(整髪等)と様々な用途がありますが、江戸時代の日本では、油は主に灯(あかり)をともすために用いられました。その灯油は菜種油が多かったのですが、他に魚油も使われ、怪談に出てくる化け猫が行灯(あんどん)の油を舐める(鶴屋南北作の歌舞伎『獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』などでも観られます)のは、それが魚の油だからです。また菜種油は天ぷらを揚げるためにも使われたそうです。
天ぷらが普及して
明治時代に入って、灯が行灯からランプに変わっていくと、使う油も石油になりました。さらに、ガス灯を経て、今ではもっぱら電気による照明です。菜種油は、明治に入ると、灯火用としては廃れてしまったのですが・・・。
天ぷらは、江戸時代には、屋台で商われ、今のファーストフード的な人気があったそうです。それが明治になると専門店が生まれたり家庭でも作られるようになって、さらにポピュラーになったといいますから、天ぷらが普及したことで、菜種油は命脈を保つことができたとも言えるでしょう。

 
閉じる