くまどりん イヤホン解説余話
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「雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)」 歌舞伎座

雨乞小町
六歌仙の一人で、美女の代名詞とされる小野小町には雨乞いの歌を詠んだという言い伝えがあり、歌舞伎ではこの『雷神…』などにその伝説が取り入れられています。その歌は「理(ことわり)や 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは」というものです。意味は「我が国は日の本といいますから、陽が照るのも理屈でしょう。でも、天(雨)が下ともいいますから、降ってもいいでしょうに」です。
このお芝居では、小野春道、春風父子の家に、先祖の小町が詠んだこの歌の短冊が家宝として伝わっています。その短冊を春風が紛失したことから、一騒動となるくだりは『毛抜』というタイトルで単独でもよく上演されます。
雨乞いの方法
さて、当時の雨乞いの方法には「山野で火を焚く」、「神仏に芸能を奉納してお願いする」、「禁忌(やってはならぬこと)を犯す」、「神社に籠る」、「類感呪術(るいかんじゅじゅつ、雷鳴や降雨をまねて実際の雨を誘おうとする)」などがあったようです。
『雷神…』の原作には、春道の娘、錦の前のセリフに「(小町の)歌が書かれた短冊を神慮にまかせ、神泉苑(しんせんえん)の御池にひたし、雨を祈り、先祖小町の名を二度上げて、天下の嘆きを休めとう存じまする」とあります。これは上記の中では「神仏に芸能を奉納してお願いする」に近く、小町がかつて神泉苑で行ったという雨乞いを再現しようというものなのでしょう。

神泉苑とは
その神泉苑は、平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏(皇居)の南に接する地に造営された南北400m、東西200mに及ぶ、池を中心とした大庭園で、天皇や廷臣の宴遊の場としても使われたそうです。
池には雨をつかさどる竜神が住み、天長元年(824)に西寺の守敏(しゅびん)と東寺の空海(弘法大師)が雨乞いを競ったといます。この時、空海が勝ったので、以後、東寺の支配下になったのだとか。小町もここで雨乞いをしたとされ、雨乞いに縁のある地と言えましょう。
鎌倉時代に神泉苑で、慈悲の心を持つ龍王を供養して雨を降らせる請雨経法(しょううきょうほう)により、雨乞いが行われた時の様子を描いた『神泉苑請雨経法道場図』が残されていて、奈良国立博物館に所蔵されています。
雨乞いの効き目
しかしこのお芝居では、日照りを止めるのは小町の歌ではなく雲の絶間姫の働きです。姫が色仕掛けで、鳴神上人を堕落させ、上人によって滝壷に封じ込められていた竜神を逃がしたので、雨が降るのです。

これはこのお芝居が書かれた江戸時代中頃には雨乞いの効き目があまり信じられなくなっていたということの表れなのかもしれません。

「古今和歌集奏覧1100年・新古今和歌集
奏覧800年記念切手」の内、
小野小町(2005年発売)


 
「絵本太功記(えほんたいこうき)」 国立小劇場 文楽鑑賞教室

13日間ドキュメント
太閤・豊臣秀吉の伝記「太閤記」におもしろいエピソードを加え、さし絵(イラスト)もそえて大衆向けに出版されたのが「絵本太閤記」。さらにそれを劇化したのがこの『絵本太功記』です。明智光秀が主君の織田信長を討ってから、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に追いつめられ、滅びるまでの13日間を、日を追って、ドキュメンタリーのようにえがいています。
仮名で登場
ただお芝居は、タイトルを「太閤」ではなく『太功』にし、秀吉をはじめ、織田信長、明智光秀たちも実名では出てきません。今の日本のメディアで「A少年」などと報じるのは人権を考えてのことですが、こちらはそうではなく、次の理由からです。
禁じられたノンフィクション 

江戸幕府は、歴史を、特に徳川家に関連した出来事をそのままお芝居にされると、それを観た人々が幕府の政治を批判しかねないと恐れ、ノンフィクションドラマを禁じていたのです。そこでお芝居の作者は、時代の設定を変えたり、登場人物に別の名前をつけたりして、幕府の目をごまかしました。


忠臣蔵は室町時代
江戸時代に起きた「赤穂四十七士の討入」をお芝居にした『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』が設定を室町時代にし、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を塩谷判官(えんやはんがん)、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を高師直(こうのもろのお)としているのが代表的な例です。
このお芝居も、羽柴秀吉を真柴久吉に、織田信長 → 尾田春長、明智光秀 → 武智光秀と微妙に変えて「歴史の人物とは違いますよ」と幕府にアピールしているのです。
人々のために
さて今回上演される『尼ヶ崎の段』は10日目の出来事、お芝居の十段目です。
この段で、光秀は「春長(=信長)が、自分の忠告を聞かず、神社や寺を壊し、行いがどんどんひどくなるので、人々のためを思って、彼を討った」と語ります。主君を滅ぼすことは「忠義に反する悪」とされていた当時でも、作者は彼を悪人と決めつけてはいませんし、それは江戸時代の人々が思いえがいた光秀の姿だったのかもしれません。
罰が当たって
ただ幕府の手前、「忠義」をまったく否定することもできなかったのでしょう。この場で、光秀が障子(しょうじ)のむこうに敵の久吉がいると思って竹ヤリで突くと、それは自分の母だった、という悲劇が起きるのは「忠義に背いた光秀が受けた罰」ということにもされているのです。

明智光秀の首塚(京都市東山区梅宮町)


 
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