くまどりん イヤホン解説余話
Facebook Twitter
 
「番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)」 国立大劇場 前進座公演

ケンカが元で
青山播磨は旗本奴(やっこ)白柄(しらつか)組の一員で、町奴との抗争に明け暮れています。嫁を迎え、身を固めればおとなしくなろう、と播磨に縁談が持ち上がったことが、彼と腰元お菊、愛し合う二人の悲劇の発端となるのです。
ツッパリのルーツ?
旗本奴、町奴の「奴」とはそもそも武家の下っ端の家来です。
徳川幕府は、三代将軍家光の頃まで、幕府に権力を集中させて体制を強化しようと、様々な理由をつけて大名家を取り潰しました。その結果、職を失った奴の一部は江戸や京、大坂へ出て、他の家へ再就職。しかし戦国の世なら自分の力次第で出世もできように、うち続く太平にチャンスはなし。彼らはそのウップンを奇抜な格好や振る舞いで晴らすようになりました。
エリートながら
「旗本」は元来、戦場で御旗のもと、主君を守る親衛隊を意味します。江戸時代に入ると将軍直属の家臣の一部を指すようになりました。彼らは戦で功績をあげれば大名への道もひらけようというエリートの家系ですが、もう戦自体がないのです。
退屈男たち
そんなわけで旗本の仕事といえば将軍に従って儀式に出るくらいです。ストレスはたまり、退屈を持て余す。そうそう「旗本退屈男」なんていう映画もあったといいますね。
そんな旗本のうち、次第に前述の奴連中に似た気風を持つようになったのが「旗本奴」です。

直参を笠に
彼らはグルになり、将軍直参を笠に、街をのし歩き、町人イジメもしました。このお芝居で、播磨も属している白柄組は実在したといい、メンバーは刀の柄(握り)をはじめ、着物の裏、袴(はかま)など、身なりのところどころをチームカラーの白で統一。これは、今のそういうグループにも見られる傾向ですね。
一方の雄は長兵衛
やがて彼らに対抗すべく生まれたのが「町奴」です。
正保、慶安(3〜4代将軍)の頃には、町人の間に剣術や柔術が流行し、なかでも腕の立つ者から、いわゆる侠客が生まれました。町奴の主な顔ぶれはその侠客をはじめ、旗本奴の子分から独立した者、武家の供小姓(ともこしょう)をやめた者たちだといいます。歌舞伎でもおなじみの幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい、このお芝居には、彼の子分達が登場)は町奴の代表格でした。
傾き者 ⇔ 歌舞伎

このように、いろんなツッパリ奴がいたのですが、彼らは総じて、そのキャラクターから、奇をてらう者という意味の「傾(かぶ)き者」、あるいは「六法(ろっぽう)者」などとも呼ばれました。歌舞伎も「傾く」が語源だといわれるように、彼らと歌舞伎は互いに影響し合い、歌舞伎の歩く芸「六法(ろっぽう)」は彼らが肩肘(かたひじ)張って歩くさまをまねたという説もあります。

町奴の代表、幡随長兵衛:歌川国芳 画

 
「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」 国立小劇場 第一部

山伏の芸能
「歌祭文」とは江戸時代、山伏が法螺貝(ほらがい)を吹いたり、錫杖(しゃくじょう、修験者が持つ杖)で拍子を取ったりしながら、世間の出来事などを面白おかしく歌って聞かせた芸能です。諸国を歩く山伏は各地の情報に通じて話題は豊富であり、さらに聞き手の興味をひくよう話を誇張もしたようです。男女の心中話も数あるレパートリーのひとつでした。
お染久松物の決定版
この作品は『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』、『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』など、多くの名作を書いた近松半二の筆になり、当時話題になった大坂の“ お染・久松 ”の話を歌祭文のように新しく物語化したという意味で『新版・・・』と題されました。いわゆる「お染久松もの」の決定版といわれます。
心中話に
その基になった話とは、大坂の質屋の娘、お染を、彼女の子守をしていた丁稚(でっち、奉公人)の久松が誤って川で溺死させてしまった。久松はその咎(とが)で店の蔵に監禁され、やがて首をくくって自殺したというものだったようです。

お芝居はそれを、油屋の娘と店の丁稚が身分を越えて、子までなす深い仲になり、ついには心中するラブロマンスにしました。

野崎村で三角関係に
なかでも人気があるのが野崎村の段です。この村の百姓、久作には久松とおみつという男女の養子がいました。二人は兄妹のように育ったものの、血縁関係はないので、久作は、将来、二人を夫婦にすべく、許婚(いいなずけ)にしたのです。
久松は10歳で油屋に丁稚奉公。働くうちにお染と恋に落ちるも、悪者に盗みの濡衣を着せられ、野崎村へ戻されます。養父の久作は、これを機に、かねて許婚だったおみつと祝言(しゅうげん、結婚)させようとするのですが、そこへ、お染が、久松恋しさに訪ねてきて・・・。
口喧嘩が名物

野崎村(今の大阪府大東市)は、古くから、当地の野崎観音に詣でる「野崎参り」で知られています。昔は、大坂からは寝屋川を舟で、あるいは川の土手、徳庵堤(とくあんづつみ)を駕籠(かご)や徒歩(かち)で行きました。この道中では、舟で行く者と土手を行く者が罵り合うのが一種の名物で、これに勝つと、一年間、福があるとも言われました。

華やかさゆえに

野崎村の段のラストはその舟と駕籠を使った実に印象的なシーンです。ここで弾かれる三味線の旋律は「野崎の送り」と呼ばれる名曲で、その華やかな曲調ゆえに、かえってお染と久松の悲劇が浮き彫りになるようです。

「野崎参り」が描かれたマンホールのフタ
大阪府大東市

 
 
閉じる