くまどりん イヤホン解説余話
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「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ) 対決、刃傷(にんじょう)」 歌舞伎座 夜の部

裁判劇
足利家乗っ取りを企む仁木弾正(にっきだんじょう)を正義派の渡辺外記左衛門(げきざえもん)がお上へ訴え、問注所(もんちゅうじょ)で白黒をつけようというのが『対決』の場です。
江戸の最高裁
この問注所の有様は江戸幕府の「評定所(ひょうじょうしょ)」を写したと思われますので、江戸時代の裁判がどんな風だったか、その一端がうかがえる舞台と言えましょう。
評定所は現代の最高裁に相当し、今の丸の内一丁目、東京駅と皇居の間あたりにあったといいます。その下には「勘定」「寺社」「町」という三つの奉行所があり、それぞれの管轄内の訴訟を担当。こちらは今の地裁のようなものでしょうか。
法廷はお白洲 
評定所では、その3奉行所の管轄にまたがるような、単独では処理できない民事訴訟を中心に、大名家のお家騒動なども裁いたといいます。
所内の広大な庭には、テレビの時代劇でおなじみの、白い砂利が敷かれた法廷「お白洲(しらす)」がありました。

素足で出廷

裁判には、いわゆる刑事と民事があり、刑事は被疑者を出頭させて審議。今のような弁護人はいません。民事は「出入筋(でいりすじ)」と呼ばれ、訴訟人(原告)と相手方(被告)を出頭させて審問。お白洲の、正面に向かって右が原告、左が被告で、両者とも刀を携えることは禁じられ、立ち会う役人を含め、素足になる決まりでした。
口を割るまで
前述の3奉行所にもお白洲があり、お裁きはそれぞれの奉行が担当しました。町奉行所を例にあげると、刑事事件の犯人を捕まえるのは廻り方同心、取調べるのは吟味与力(ぎんみよりき)。犯人の自白が全てだったので、口を割るまで拷問にかけたといいます。そして吟味与力の調書に基づいて奉行は判決を言い渡し“ これにて一件落着 ”とあいなったようです。
御目見得叶わず
なお町奉行の同心や与力は世襲制で、罪人を縛る「不浄(ふじょう)役人」と呼ばれ、将軍に御目見得(おめみえ)することは許されませんでした。他の旗本、御家人とも交流がなく、同役の家同士の結婚が多く、幕末にはほとんどの与力、同心が縁戚関係になっていたとか。
長バカマをさばくのは・・・ またテレビの遠山の金さんはお白洲へ降りる段梯子で長袴(ながばかま)をさばくのがお決まりですが、実際は、裁判長に当る人物が長袴を穿くことも、段梯子もなかったといいます。
三代目歌川豊国画
『五代目松本幸四郎の仁木弾正』

 
文楽「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」  国立小劇場
『妹背山…』は『日本書紀』に書かれている大化の改新の頃の出来事を扱った作品です。しかし、他の多くの文楽や歌舞伎の作品と同様に、史実をかなり自由にアレンジし、伝説が巧みに取り入れられています。

鹿殺しは重罪
芝六は主君、藤原淡海(ふじわらのたんかい)に命じられて、蘇我入鹿(そがのいるか)を倒すために必要な牝鹿を捕らえますが、興福寺の塔頭(たっちゅう:大寺の山内にある末寺)から鹿殺し詮議のお触れがでます。しかし、実際には興福寺が出来たのは710年で、蘇我入鹿の時代にはまだありませんでした。
興福寺は藤原氏の氏寺で、神仏習合が進むに連れ、藤原氏の氏神を祀る春日大社と一体化しました。春日大社は鹿を神の使いとし、鹿は神聖な動物とされたため、「鹿殺しが詮議された」としたのでしょうが、春日大社が出来たのも興福寺と同じ710年で、入鹿没(645年)より後のことです。
「芝六忠義の段」では父・芝六の難儀を救おうとして継子・三作が鹿殺しの罪をかぶり、大垣(石子詰め)の刑に処されそうになりますが、中臣鎌足(なかとみのかまたり)のはからいによって救われます。これは「習字をしていた三作少年が、少し離れていた間に鹿が来て習字を食べてしまった。三作が怒って文鎮を投げつけたら当たり所が悪くて死んでしまった。それで鹿殺害犯として死んだ鹿と一緒に、小石で生き埋めの石子詰めという処刑をされた」という三作石子詰めの伝説を取り入れたものです。


奈良公園の鹿
春日大社に隣接する奈良公園で今でも鹿の殺生が禁止され、保護されているのは、鹿がこうして、春日大社の神の使いとして大切にされてきた伝統によるのです。

イルカか鹿か
「金殿の段」で鎌足の子、淡海は入鹿を滅ぼす手立てを次のように語っています:「白い牝鹿の生血を取り、母に与え、健やかな男子出生。鹿の生血体内に入るを以て入鹿と名づける。それゆえ奴が心をとろかすには爪黒の鹿の血汐と疑着の相ある女の生血を混ぜて、笛に注ぎかけて吹くと、秋鹿が妻恋うように自然と鹿の性質が顕われ、色音を感じて正体をなくす。その隙に宝剣を奪い返す。」(口語訳)
しかしこれは全くのフィクションです。「入鹿」という名は天皇に対する僭越行為や山背大兄王殺害の穢れをはらうために『日本書紀』の編者が海にいるイルカを想像してつけた蔑称であり、正式には「大郎鞍作」と呼ばれていたという説もあります。
入鹿の真の姿
『日本書紀』では蘇我蝦夷・入鹿親子は天皇(大王)に反逆した悪逆非道の者とされ、『妹背山…』でも同様に描かれ、学校の日本史の授業でもそのように教えられてきました。しかし、近年の歴史研究の結果、『日本書紀』には筋の通らない記述があることがわかり、編者が史実を枉(ま)げて記録したのではないかという説も出てきています。
「蘇我氏は僭越であった訳ではなく、百済(くだら)が唐に攻められつつある朝鮮半島情勢を危惧し、唐にも近づこうとしたが、それまで通り百済一辺倒の外交政策を推す勢力に敗れた」のだとか、「入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に滅ぼされたとされる「大化の改新」(近年は「乙巳(いっし)の変」と呼ばれることが多い)も実は変の後に即位した孝徳天皇の陰謀であった」とか様々な説があります。

入鹿は『妹背山…』では文楽や歌舞伎の作劇パターンに従って公家悪(くげあく:天皇位を狙う身分の高い人物。広い意味では国崩し(国家転覆、権力掌握を狙う大悪人)の一種)とされましたが、実際は悪人ではなく、国のことを思っていたのかもしれません。
 
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