くまどりん イヤホン解説余話
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「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」 国立劇場

五人に一人が
「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と伊勢音頭に歌われるほど、江戸時代には伊勢神宮へ詣でる「伊勢参り」が盛んでした。最盛期には全人口の五人に一人は出かけたといわれます。
メインは遊び
ただその実態はレジャー主体で、信仰は二の次だったようです。それというのも、当時は、旅に出るにも、お上へ関所の通行手形を申請しなければならないなど、やかましい制約があり、それが「伊勢参りに行きます」と言えば、比較的、楽に許されたからです。

そんなわけで、現地では、お参りもそこそこに、昼は二見ヶ浦の「夫婦岩」あたりを観光。夜は、精進落しと称し、遊廓に繰り込むなど、大いに羽根を伸ばしたのでした。このお芝居の舞台になっている古市(ふるいち)の廓もそんな客で大賑わいだったといいます。
施行も魅力
また伊勢の街道では、施行(せぎょう)といって、旅人に食べ物や酒をはじめ、笠、杖、ワラジなど旅の必需品、さらに風呂や薬などを無料で振る舞うボランティア活動が盛んでした。なかにはその施行でもらうオニギリが「久しぶりの白いご飯」という貧しい人もいて、これも庶民には実に喜ばれたといいます。

犬もお参り
伊勢参りのために、多くは、仲間で費用を積み立て、抽選で順番に行く「伊勢講(いせこう)」に参加しました。抽選に当たっても、病気などの事情で行けないとなると、犬を代わりにやる「犬の代参」というのもあったとか。また無性に行きたくて、親や主人に内緒で出かけてしまう「抜け参り」も流行りました。

ツーリスト兼ツアコン
なお伊勢参りのいっさいを世話するのが「御師(おんし)」と呼ばれた神宮の下級の神官です。彼らは全国を廻って伊勢神宮のお札を配るとともに伊勢講の予約を取り、参拝手続や宿泊、廓の手配、案内もしました。今の旅行代理店やツアーコンダクターに当たると言えます。

『伊勢音頭…』の主人公、福岡貢(みつぎ)はその御師です。

夢の旅行をシミュレート

伊勢はまた、今もそうですが、海産物が豊富で食べ物もおいしかった。このお芝居は、そんな“ 夢の伊勢旅行 ”を疑似体験したり、行った人は思い出すことができ、それが魅力のひとつでもあったのでしょう。

昔の面影を残す伊勢内宮の門前町、
おはらい町



 
「藤娘(ふじむすめ)」 御園座 昼の部

バリエーション舞踊から
『藤娘』は藤の精が娘に化身し、いかにも娘らしい優美な姿や恋心をさまざまに見せる踊りで、そもそもは『哥へす哥へす余波大津絵(かえすがえすなごりのおおつえ)』という五変化舞踊の最初のひとコマでした。「変化舞踊」は一人の踊り手がいくつかの役柄に次々に変わって踊るもので、『哥へす哥へす…』は琵琶湖畔、大津のお土産として江戸時代初期から人気があった素朴な画「大津絵」に描かれたキャラクターのうち、“ 藤かつぎ娘 (藤の枝をかついだ娘)”、“ 座頭 (ざとう、盲目のあんま)”、
“ 天神 ”、“ 船頭 ”、“ 奴 ”の五つを踊りわけるものでした。
瀟湘八景がオリジナル
『藤娘』は「藤かつぎ娘」が絵から抜け出て踊る趣向で、伴奏される長唄の詞には、大津絵にちなんで「近江八景(おうみはっけい)」の地名がたくみに読み込まれています。
近江八景というのは、琵琶湖畔南部に点在する名勝を中国湖南省の洞庭湖(どうていこ)とその近くの河、湘江(しょうこう)、瀟水(しょうすい)の風光明媚な八つの情景を描いた「瀟湘(しょうしょう)八景図」になぞらえたものです。日本には、ほかにも金沢八景など、“ 何々八景 ”というのがありますが、近江八景はそれらのなかでもっとも早く選定されたといわれます。
都に近い江(みず)の郷
水のある景色は、なにか心癒やされるようで、人々の気持をとらえるのでしょう。琵琶湖は京の都から一番近い水の郷。今なら、京都から新幹線で東山のトンネルを抜けると、やがて目の前に広がります。それでこの地は近淡海(ちかつあはうみ)→近江(おうみ)と呼ばれるようになりました。ちなみに静岡県の浜名湖は遠淡海(とほつあはうみ)→遠江(とおとうみ)でした。
都にほど近い、水を背景にした八つの景勝地は、まず都の人々に愛でられ、やがて広く知れ渡るようになりました。
掛け言葉になって
さてその近江八景は、南から

石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)=石山寺、瀬田の夕照(せたのせきしょう)=瀬田の唐橋 、粟津の晴嵐(あわづのせいらん)=粟津原 、矢橋の帰帆(やばせのきはん)=矢橋、 三井の晩鐘(みいのばんしょう) =三井寺、唐崎の夜雨(からさきのやう)=唐崎神社、堅田の落雁(かただのらくがん)=堅田の浮御堂 、比良の暮雪(ひらのぼせつ)=比良山の八つ。「夕照」は夕焼け、「晴嵐」は晴れた日に、風で松の葉がこすれる音が嵐のように聞こえる様、「帰帆」は帰途につく帆かけ船、「落雁」は舞い降りる雁、「暮雪」は夕暮れの雪景色のことです。『藤娘』にはこれらの地名が“ 堅い誓の石山に 身はうつせみの から崎や ”というように、掛け言葉になって出てきます。

『矢橋の帰帆』歌川広重 画 『唐崎の夜雨』歌川広重 画


和歌で暗記
近江八景を覚えるのに便利な「歌」をここでご紹介しておきましょう。

せた(瀬田)から さき(唐崎)はあわず(粟津)か ただ(堅田)のかご ひら(比良)いしやま(石山)や はし(矢橋)らせてみい(三井)

これは江戸時代の天明期を代表する文人、大田南畝(おおたなんぽ)が、カゴ屋から「近江八景の地名すべてを一首の歌に入れることができたら、カゴ代をタダにしよう」ともちかけられて作った歌なのだそうです。
 
「平家女護島(へいけにょごがしま) 俊寛(しゅんかん)」 御園座 夜の部、大阪平成中村座 夜の部

近、中、遠3ランク
主人公、俊寛は平家打倒を企て、平清盛により、鬼界ヶ島(きかいがしま、現・鹿児島県硫黄島)へ流されました。
日本の「流罪」は古代、神の怒りに触れた者を島に捨て殺しにしたのが始まりとか。
奈良、平安の頃は、唐の制度にならい、罪の重さに応じて流刑地を遠ざける「近流(きんる)=備前、安芸」、「中流(ちゅうる)=信濃、伊予」、「遠流(おんる)=安房、伊豆、常陸、佐渡、隠岐、土佐」の3ランクがあったとされます。ただ時の為政者の気分次第でさらに遠くされることもあったよう。俊寛を鬼界ヶ島まで流した清盛の憎しみはさぞ強かったのでしょう。
命が縮む流人暮らし
流刑者は必ず妻を同行させられ(他の家族は希望すれば可)、流刑地の戸籍へ。つまり一生帰れず、たいてい2年ほどで亡くなったといいます。「老後は田舎でスローライフ」が流行る昨今とは想像を絶する環境の違いだったということでしょう。
後に例外的に帰還を許される「非常赦(ひじょうしゃ)」が施されるようになったといい、俊寛に連座した平康頼、藤原成経が帰れたのはその一例です。


佐渡金山は地獄
江戸時代は、大坂からは薩摩、隠岐、天草あたり、江戸からは伊豆七島がおもな流刑地だったとか。また戸籍から外された無宿者(むしゅくもの)が罪を犯すと、佐渡送りになり、佐渡金山の湧き水を汲み出す水替え人足として強制労働。これは本当に悲惨だったということです。

明治になると蝦夷(えぞ、北海道)へ流され、監獄へ入れられたようですが、新しい刑法が制定された明治41年(1908年)、流罪は廃止されました。

流罪は世界基準
いわゆる文化人では、世阿弥が佐渡へ(理由は不明)、画家、英一蝶(はなぶさいっちょう)は時の将軍と愛人のツーショットを描いて風刺した咎で八丈島(三宅島とも)へ流されたといいます。

菅原道真、崇徳(すとく)天皇、源為朝、江島生島ら流罪にされた人物のお芝居はいろいろあるなか、「俊寛」は海外でも上演され、大いに共感を呼びました。ナポレオンがセントヘレナ島へ流された例を引くまでもなく、流罪はグローバルな背景だからでしょう。
鹿児島市にある俊寛の碑
(流刑の地へ船出した所)


 
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