くまどりん イヤホン解説余話
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「ひらかな盛衰記 源太勘當(ひらかなせいすいき げんだかんどう)」 歌舞伎座

ひらかな盛衰記
「ひらかな盛衰記」という題名は題材の軍記物語「平家物語」や「源平盛衰記」をわかりやすくしたという意味。元文4年(1739)に全五段の人形浄瑠璃として初演され、後に歌舞伎化されました。今回上演される「源太勘當」は二段目の後半、また、木曽義仲に仕えた樋口兼光の活躍を描いた「逆櫓(さかろ)」は三段目の後半で、歌舞伎でも時折上演されます。
描かれている時代
「ひらかな… 源太勘當」の主人公、梶原源太景季(かじわらげんだかげすえ)は源頼朝に仕えた梶原景時の長男。

平安時代末期、木曽義仲は木曾山中から兵を率いて京に上り、奢る平家を都から追い、平家に代わって都に居座りましたが、略奪や狼藉で公家や庶民から不評を買いました。そこで、源頼朝は弟の源範頼と義経を近江国(現在の滋賀県)へ派遣し、義仲と対決。梶原景時・景季父子はこれに従いました。

宇治川の先陣争い
義経軍と義仲軍は宇治川で対陣。梶原景季は磨墨(するすみ)、佐々木高綱は生食(いけづき)という名の馬に乗り、どちらが義経軍の一番乗りで、宇治川の対岸に着く功名を立てるか(先陣を)争い、高綱が一歩早くたどり着きました。
これを一族の不名誉として、景時が戦場から景季を鎌倉に送り返し、切腹させるよう、書状で命じたというのが「源太勘當」の幕開きの設定です。

なお、宇治川の戦いで義経軍は勝利し、義仲を討ち取りました。



池月
磨墨も生食 (池月)ももともとは源頼朝の愛馬でしたが、景季、高綱に譲られたものです。

生食の産地についてはいくつか説があります。一つは下総国の牧(千葉県柏市)とするもの。黒栗毛でたくましく、近づいてくる生き物にかみつくので「生食」と名付けられたとのこと。

次に、東京都大田区とする説。頼朝が石橋山の戦いで敗れて、再挙を目指し鎌倉へ向かう途中、洗足池(東京都大田区)の畔に陣を敷いていた時に、青毛に白い斑点が浮かぶ馬が現れました。頼朝はこの馬を、池に月影が浮かぶような姿から「池月」と名付け、平家討伐軍成立の吉兆と喜びました。 この伝説にちなみ、洗足池畔の千束八幡神社には池月の像があります。

他に山陰地方を生食の産地とする伝説もあります。

伊達男 景季
梶原景季は翌月、一の谷の戦いでは源範頼の大手軍として参戦。『源平盛衰記』によれば、この時に景季は箙(えびら。矢を挿して背負う武具)に梅の花の枝を挿して奮戦し、坂東武者にも雅を解する者がいると敵味方問わず賞賛を浴びたとのこと。そうした雅な雰囲気が「ひらかな…」の源太景季にも表れています。

千束八幡神社の池月像
 
この「箙の梅」伝説はさまざまな作品に取り入れられ、能『箙』、岡本綺堂作の新歌舞伎『箙の梅』などが有名です。
「ひらかな…」四段目では源太の恋人千鳥は源太の出陣に必要な鎧を請け戻す金を工面するため、廓に身を売り、梅が枝(うめがえ)と名乗っています。
 
「信州川中島合戦(しんしゅうかわなかじまかっせん)」 国立小劇場

まずは母の機嫌取り
長尾輝虎は、敵対する武田信玄お抱えの軍師、山本勘介(一般的には勘助) を得んために、勘助の母に気に入られようともくろむのですが・・・。大河ドラマ(2007年放映「風林火山」、1988年放映「武田信玄」)、小説(井上靖「風林火山」、新田次郎「武田信玄」)でもおなじみの山本勘助にまつわるお話です。
一冊の書物だけに
勘助は高名なわりに、実態は謎に満ちていて、その事跡は「甲陽軍鑑(こうようぐんかん。信玄、勝頼親子を軸に、合戦の様子や武将の心構えなどを記す)」という書物、江戸時代のベストセラーにしかありません。
隻眼の名軍師
この書によれば、彼は明応2年(1493)三河の牛窪(愛知県豊川市牛久保町)に生まれ、源助貞幸と名付けられたのを、12歳で他家の養子となり、勘助と改名。
成人後、今川義元に仕官を願ったものの、叶わず、やがて推挙を得て、信玄の元へ。

そこで、名軍師として築城、軍略の才知をもって大いに活躍。永禄4年(1561)、第四次の川中島合戦で、敵に策略を見破られ、討ち死にしたといいます。また彼は隻眼(せきがん、片目)で片足が不自由だったともいわれています。

息子の捏造
この「甲陽・・・」が基になって、彼を稀代の軍略家とするお芝居や講談が数々生まれたのですが・・・。

実はこの書は、出来事の日付に矛盾が多く、大部分は勘助の子の作り話らしい、といった理由から、史料の価値はなく、「名軍師、勘助は架空」とする説が、明治の中頃から、有力でした。



「武田二十四将」(江戸後期、武田神社蔵)
下段左から2番目が山本勘助

歴史的お宝で
昭和44年(1969)、当時の大河ドラマ「天と地と」を見たある視聴者が“ 山本菅助 ”と記された家伝の書状を「もしかしたら」と鑑定に出したそうです。これが信玄が北信濃の市河藤若へ宛てた正真正銘の手紙で、菅助は書状を届けた使者と判明。歴史的なお宝だったわけです。

こうして菅助=勘助は実在し、「甲陽・・・」並の人物と言えないまでも、信玄の使者を務めるほどの家来であったろうことがわかったといいます。

ヤマカンの語源?

よく、当てずっぽうなことを「やまかん」といいますが、これは山本勘助を略したという説もあるそうです。名軍師といえども、策略の成功を運に任せたこともあったからでしょうか。この説の通りならフィクションの勘助はこんな言葉も生んだということですね。
 
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