くまどりん イヤホン解説余話
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「幻想神空海(げんそうしんくうかい)」 歌舞伎座

今月、歌舞伎座は『陰陽師』の作者として知られる夢枕獏(ゆめまくらばく)作『沙門空海 唐の国にて 鬼と宴す』を元にした新作歌舞伎『幻想神空海』が上演されています。
これは2015年に開創1200年で話題になった高野山金剛峰寺の開山 空海(774〜835年。弘法大師)が唐(現在の中国)で様々な人物や出来事にあうお話。
空海は平安時代初め(9世紀初頭)に遣唐使として唐に渡り、密教の教えを日本に持ち帰り、真言宗として広めた人物で、「三筆(さんぴつ)」の一人ともされる書の名手で、様々な分野で活躍し、日本各地に多くの伝説があります。没後、弘法大師の名を授けられました。
『幻想神空海』幕開き(序章)には楊貴妃(ようきひ)が舞う様子が幻として登場し、第三章で空海が橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に訪ねる妓楼の常連客の一人に白楽天(はくらくてん。772〜846年。白居易(はくきょい))がいます。黒い化け猫が居ついた家に住む劉雲樵(りゅううんしょう)・春琴の夫婦はその猫に憑りつかれると、李白が玄宗皇帝の前で楊貴妃の美しさを讃えて歌いあげた詩『清平調詞』を唱えます。やがて皇帝呪詛事件が起きると、空海はこれには亡き楊貴妃の想いが関わっていると考え、逸勢と共に楊貴妃の墓を訪ねます。

楊貴妃や李白、白楽天とはどんな人物だったのでしょうか。

才色兼備
楊貴妃(719〜756年)は中国、唐王朝の玄宗(げんそう)皇帝の寵愛を一身に集めた女性で、古代エジプトのクレオパトラとともに、類いまれな美貌で世界中に名を知られています。
「貴妃」は後宮(こうきゅう。宮中奥向きの私的な生活の場。ハーレム。江戸時代の日本だと大奥にあたる)の位の一つで、皇后に次ぐもの。貴妃より下には4つの位があり、これらのそれぞれに仕える女官たち、その女官たちに仕える女官もいて、「後宮に三千の美女」というのは誇張ではなかったようです。
楊貴妃は皇帝の傍に迎えられて5年後には「貴妃」の称号を賜り、地位が安定し、皇帝の寵愛を一身に受けるようになったといいます。

玄宗と楊貴妃のエピソードを歌った白居易(はくきょい)の詩『長恨歌』と同時に作られた伝奇小説『長恨歌伝』は、楊貴妃が玄宗の寵愛を独占できた理由として、容姿に加えて心遣いも優れていたことを挙げています。『新唐書(しんとうじょ。中国、唐代の公式な歴史書。北宋の1060年成立)』の貴妃伝には「楊貴妃は舞が上手で音楽に詳しく、気が回った」と書かれていて、皇帝の愛を独占するのも当然と思われるような、才色兼備の魅力的な女性であったことがうかがわれます。
安禄山の乱

高久靄
(たかくあいがい。1796〜1843)画
『楊貴妃図』
 

玄宗は皇帝に即位した当初は人材登用と富国強兵を掲げ、様々な改革に取り組み、世の中は安定しますが、楊貴妃を迎えた後は遊興に耽り、政治を顧みなくなります。楊貴妃が寵愛されるに伴い、その一族も玄宗に重用されるようになりました。中でも楊貴妃の又いとこ(一説にはいとこ)の楊国忠(ようこくちゅう。 〜756年)が宰相になり、権力を自らに集中すると、周囲の反感が強まります。やがて楊国忠のライバル、安禄山(あんろくざん)が反乱を起こすと、楊国忠をはじめ、楊一族の者たちは皇帝の兵士たちに殺害されます。兵士たちがさらに楊貴妃の処刑を要求すると、玄宗は高力士の説得に泣く泣く従い、楊貴妃を縊死させました。
高力士
高力士(こうりきし)は玄宗が皇太子の時からの宦官(かんがん。宮廷に仕えた去勢された男子)で、玄宗の信頼が厚く、常にそのそば近くに仕えました。のちに楊貴妃になった楊太真が道士(道教を信奉し、道教の教義にしたがった活動を職業とするもの)として過ごしていたのを、勅命により皇帝の傍で仕えるよう、迎えに来たのも高力士です。
李白は『清平調詞』をきっかけに玄宗の寵遇を得ましたが、それを妬んだ高力士の讒言により、長安を追われました。高力士は玄宗の全幅の信頼を受けましたが、補佐役に徹し、権力を乱用することはなかったとようです。
美が災いして
楊貴妃は武則天(ぶそくてん。唐の高宗の皇后。日本では則天武后と呼ばれることが多い)のように策略を用いて競争相手を蹴落とし、自ら権力を握るようなことはありませんでした。楊貴妃の死はその行いが悪かった訳ではなく、高力士が悪かった訳でもなく、楊貴妃の美しさ(に玄宗が溺れたこと)が招いた悲劇であったと言えるでしょう。



『漢書』外威伝には、後に漢の武帝に寵愛され李夫人となる美しい女性のことを詠んだ詩があり、そこから、「男が、その美しさに夢中になって都市や国をなげうつような女性」のことを「傾城」「傾国」と言いますが、楊貴妃はまさにこれに当たります。紀元前11世紀に滅んだとされる古代中国の殷(いん)王朝の滅亡の原因となった妲己(だつき)のように、美しくても腹黒い女性は「傾国」ではなく「毒婦」と呼ばれます。「毒婦」と呼ばれなかったのは楊貴妃の人徳のなすところなのでしょう。

文学や伝説の楊貴妃
楊貴妃は様々な詩や伝説などに描かれています。李白は楊貴妃の存命中に、その美しさを詩に詠みました。後世には白居易(はくきょい)の『長恨歌』をはじめ、多くの詩や伝説ができました。
日本における楊貴妃
日本でも楊貴妃について様々な作品ができました。能と日本舞踊にも『楊貴妃』という演目があり、渡辺龍策『楊貴妃後伝』、大佛次郎『楊貴妃』、井上靖『楊貴妃伝』など、楊貴妃を題材にした作品があります。

また、楊貴妃は安禄山の乱(安史の乱)の時に死んだのではなかったとする伝承もあり、それには「替え玉説」と「蘇生説」があります。「蘇生説」のうち、楊貴妃は蘇生して船で川を下り、日本へ渡ったという伝説に基づき、山口県長門市には楊貴妃の墓があります。このような伝説が生まれるのは「成吉思汗は源義経である」という伝説などと同様で、楊貴妃の死が惜しまれたことを意味するのでしょう。

山口県長門市にある楊貴妃の墓
 
 
文楽「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」  国立文楽劇場
『妹背山…』は『日本書紀』に書かれている大化の改新の頃の出来事を扱った作品です。しかし、他の多くの文楽や歌舞伎の作品と同様に、史実をかなり自由にアレンジし、伝説が巧みに取り入れられています。

鹿殺しは重罪
芝六は主君、藤原淡海(ふじわらのたんかい)に命じられて、蘇我入鹿(そがのいるか)を倒すために必要な牝鹿を捕らえますが、興福寺の塔頭(たっちゅう:大寺の山内にある末寺)から鹿殺し詮議のお触れがでます。しかし、実際には興福寺が出来たのは710年で、蘇我入鹿の時代にはまだありませんでした。
興福寺は藤原氏の氏寺で、神仏習合が進むに連れ、藤原氏の氏神を祀る春日大社と一体化しました。春日大社は鹿を神の使いとし、鹿は神聖な動物とされたため、「鹿殺しが詮議された」としたのでしょうが、春日大社が出来たのも興福寺と同じ710年で、入鹿没(645年)より後のことです。
「芝六忠義の段」では父・芝六の難儀を救おうとして継子・三作が鹿殺しの罪をかぶり、大垣(石子詰め)の刑に処されそうになりますが、中臣鎌足(なかとみのかまたり)のはからいによって救われます。これは「習字をしていた三作少年が、少し離れていた間に鹿が来て習字を食べてしまった。三作が怒って文鎮を投げつけたら当たり所が悪くて死んでしまった。それで鹿殺害犯として死んだ鹿と一緒に、小石で生き埋めの石子詰めという処刑をされた」という三作石子詰めの伝説を取り入れたものです。

奈良公園の鹿
春日大社に隣接する奈良公園で今でも鹿の殺生が禁止され、保護されているのは、鹿がこうして、春日大社の神の使いとして大切にされてきた伝統によるのです。

イルカか鹿か
「金殿の段」で鎌足の子、淡海は入鹿を滅ぼす手立てを次のように語っています:「白い牝鹿の生血を取り、母に与え、健やかな男子出生。鹿の生血体内に入るを以て入鹿と名づける。それゆえ奴が心をとろかすには爪黒の鹿の血汐と疑着の相ある女の生血を混ぜて、笛に注ぎかけて吹くと、秋鹿が妻恋うように自然と鹿の性質が顕われ、色音を感じて正体をなくす。その隙に宝剣を奪い返す。」(口語訳)

しかしこれは全くのフィクションです。「入鹿」という名は天皇に対する僭越行為や山背大兄王殺害の穢れをはらうために『日本書紀』の編者が海にいるイルカを想像してつけた蔑称であり、正式には「大郎鞍作(たろうくらづくり)」と呼ばれていたという説もあります。

入鹿の真の姿
『日本書紀』では蘇我蝦夷・入鹿親子は天皇(大王)に反逆した悪逆非道の者とされ、『妹背山…』でも同様に描かれ、学校の日本史の授業でもそのように教えられてきました。しかし、近年の歴史研究の結果、『日本書紀』には筋の通らない記述があることがわかり、編者が史実を枉(ま)げて記録したのではないかという説も出てきています。 「蘇我氏は僭越であった訳ではなく、百済(くだら)が唐に攻められつつある朝鮮半島情勢を危惧し、唐にも近づこうとしたが、それまで通り百済一辺倒の外交政策を推す勢力に敗れた」のだとか、「入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に滅ぼされたとされる「大化の改新」(近年は「乙巳(いっし)の変」と呼ばれることが多い)も実は変の後に即位した孝徳天皇の陰謀であった」とか様々な説があります。 入鹿は『妹背山…』では文楽や歌舞伎の作劇パターンに従って公家悪(くげあく:天皇位を狙う身分の高い人物。広い意味では国崩し(国家転覆、権力掌握を狙う大悪人)の一種)とされましたが、実際は悪人ではなく、国のことを思っていたのかもしれません。

 
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