くまどりん イヤホン解説余話
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「土蜘(つちぐも)」 歌舞伎座 第三部

知誅〜蜘蛛〜智籌
8本の足を持ち、糸を吐き出して網を張りエサを捕えるクモ。これに「蜘蛛」の漢字を当てたのは、網にかかったエサを知り、誅して(殺して)喰らう習性からだという説があります。その残忍でグロテスクな光景に、昔の人々はクモを悪魔の化身と捉えたのかもしれません。
『土蜘』はクモの妖怪が源頼光(みなもとのよりみつ)を亡き者にしようとする舞踊劇です。頼光は平安時代中頃に摂政、関白家から厚く信任され、京の都の治安を護る最高責任者でした。秋の夜半、病に伏す頼光の枕辺に比叡山の僧、智籌(ちちゅう)が忽然と現れ、頼光の病気平癒を祈りに来たというのですが…。ちなみにチチュウという名は「蜘蛛」の音読みでもあります。
朝クモ、夜クモ
第19代・允恭(いんぎょう)天皇の妃だった衣通(そとおり)姫は、夫が、その夜、訪ねてくることをクモの様子から悟り、「わが背子が来べき宵なりささがねの くものふるまい 今宵しるしも」と詠みました。天皇には皇后、すなわち正妻がいたので、妃=側室の姫は愛する人との逢瀬を心待ちにしていた。そんな折、笹の根元で糸を吐き出し、八本の足で器用に網を編むクモの振舞に夫の来訪を確信したというのです。
この歌からも察せられるように、昔の人々は、クモの不可思議な行動は何かを予兆すると思っていたようですし、中国でもクモが巣を張ろうとする姿は福を招く(待ち人が来る)と信じられたといいます。さらに日本では今でも「朝、クモが巣を作ればその日は晴れる」とか「夜のクモは泥棒を招くから親に似ていても殺せ」などと言う地方があるようです。

順わぬ者の怨念
また古代の日本では、天皇に従わない土着の民、すなわち体制に順(まつろ)わず(従わず)、抵抗する人々を、体制側は土蜘蛛、都知久母(つちぐも)、鬼などと呼んで蔑んだのだそうです。なかでも、奈良県の葛城山(かつらぎやま)にいた土蜘蛛族は特に有名だったようで、この地の葛城一言主(ひとことぬし)神社には「土蜘蛛塚」という小さな塚が今もあります。これは神武天皇が彼らを捕え、その怨念が蘇えらぬよう、頭、胴、足を別々に埋めた跡だということです。

『土蜘』の主人公は、自分はその葛城山に古くから棲んでいたと語ります。彼は都の華やかな宮廷生活の裏に広がる順わぬ人々の深い怨念の闇を象徴しているのかもしれません。

クモは益虫
今ではクモの研究が進み、その習性を利用した科学的実験が行われているといいますし、害虫を駆除するために飼うこともあるそうです。

都会ではクモを目にすることなど、ほとんどない昨今ですが、『土蜘』の根底に流れる怪異な姿にたくした古い言い伝えの心は残したいものです。
土蜘蛛塚:奈良県・葛城一言主神社 境内
 
 
「新編西遊記(しんぺんさいゆうき) ―GO WEST!」 国立文楽劇場 第1部 親子劇場

文楽の孫悟空
文楽にはおサルの孫悟空(そんごくう)が大あばれする『五天竺(ごてんじく)』という劇があります。
天竺は今のインドです。インドはずっと昔は、東西南北、そして中という五つの地方にわかれていました。ですから五天竺はインドの国ぜんぶということです。
仏さまの教え
そのインドへ、今から1400年くらい前に、中国の玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)というお坊さんが旅をしました。中国にはインドの仏(ほとけ)さまという立派な人の教えが伝わっていました。でも、そのころはまだ、お坊さんが自分だけ勉強して仏さま

のようになる方法(むずかしく言うと小乗仏教、しょうじょうぶっきょう)しか伝わっていませんでした。

17年かかった旅
そこで中国の王さまは三蔵に、インドへ行って、たくさんの人が勉強する方法(大乗仏教、だいじょうぶっきょう)が書いてある教科書をもらってくるようにたのみました。   
こうして三蔵はインドへ行くことになりました。それはあぶないことがいっぱいある命がけの旅でした。今のように飛行機も電車も自動車もありません。行って帰ってくるのに17年もかかったそうです。
いろんなお話になって
この旅のようすはたくさんの人に、ず〜と長く伝えられ、その間にいろんなお話になりました。孫悟空がおともをしたという本当はなかったお話もくわわりました。おともは、はじめは孫悟空だけでしたが、だんだんカッパの沙悟浄(さごじょう)やブタの猪八戒(ちょはっかい)も仲間になりました。
そのいろいろなお話を、400年前に、呉承恩(ご・しょうおん)という人がまとめたのが「西遊記(さいゆうき)」という物語です。

文楽の孫悟空
 
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