くまどりん イヤホン解説余話
Facebook Twitter
 
「京鹿子娘五人道成寺(きょうかのこむすめごにんどうじょうじ)」 歌舞伎座 第三部
「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」 先斗町歌舞練場 第三部

伝説の後日譚
能の「道成寺」を下敷きにした『京鹿子娘道成寺』にはバリエーションが50ほどもあるといわれ、それらは「道成寺物」と呼ばれます。今回、歌舞伎座で上演される『京鹿子娘五人道成寺』はそのひとつで、五人で踊り分ける特別な演出。
能の道成寺は、清姫が、恋しい安珍が隠れた道成寺の鐘を蛇となって焼きとかしたという伝説の後日譚(ごじつだん、後のお話)、鐘が再建されると、清姫の怨霊が現われ、再び鐘を落としてしまうお話です。
能VS歌舞伎
歌舞伎では、元禄期に、「女形、水木辰之助が初めて鐘入りの所作をした」、「初めて謡を取り入れたのは榊山小四郎の『語り道成寺』」などと記録にあり、能の道成寺から想を得て演じられたことがわかります。

その評判は「大蛇、水操り、宙のりいろいろ仕候…」といったもの。能が後日譚なのに対し、歌舞伎は元々の伝説の劇的部分を拡大し、軽業的演出でスペクタクルな見せ場に仕組んだようです。武家の式楽とされた幽玄(ゆうげん)な能と庶民の娯楽、歌舞伎の違いですね。

道成寺の決定版

その後、廓の世界を取り入れた「傾城道成寺」など、歌舞伎独自の作品も生まれました。やがて初代中村富十郎が宝暦三年(1753)に『京鹿子…』を初演すると、以後はこれが歌舞伎の道成寺物の決定版となり、今に続いています。

近代精神に洗われて

ただこの『京鹿子…』にしても、あくまで想像ですが、はじめは、特に女形舞踊の全盛期には、女形のありとあらゆる美しさ、姿かたちをショー的に見せることを主眼にしたと思われるのです。

蛇体の清姫と鐘
(鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「道成寺鐘」)
 

今のように能の精神性も加味し、ずっしりとした大曲になったのは明治以降、歌舞伎が近代精神に洗われ、また能が解禁されたことによるのでしょう。
ベテランと花形を
姿も技も優劣つけがたい女形の競演を見たさに『二人道成寺』が生まれましたが、今回歌舞伎座で上演される『…五人道成寺』はベテラン、玉三郎と花形の4人、両者の魅力を一度に楽しめるのがうれしいですね。
鐘見物と押し戻し
一方、京都・先斗町歌舞練場で上演される『京鹿子・・・』は五代目中村雀右衛門襲名披露の演目、しかも今回は、悪霊を退散させる「押戻し」がつく演出で、海老蔵も登場する豪華版です。
道成寺の鐘は再建後、災厄が続き、清姫の祟りと恐れられ、捨てられていましたが、豊臣秀吉の紀州根来(ねごろ)攻めの大将が掘り出して京都に持ち帰り、後に妙満寺に納められました。

ご観劇と鐘見物を兼ね、京都を訪ねられてはいかがでしょうか。
 
「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」 国立小劇場 第一部

兜を見分ける
『仮名手本忠臣蔵』大序 では 「新田義貞が後醍醐の天皇より賜つて着せし兜。敵ながらも義貞は清和源氏の嫡流、着棄の兜といひながらそのまゝにもうちおかれず。当社の御蔵に納める条、その心得あるべし」と、義貞の兜を鶴岡八幡宮の蔵に納めるようにという足利尊氏からの厳命が伝えられます。これは「新田に徒党の討ちもらされ、御仁徳を感心し、攻めずして降参さする御方便」とあるように尊氏の計略でした。高師直の言うには「義貞討死したる時は大わらは。死骸のそばに落ち散つたる兜の数は四十七。どれがどうとも見知らぬ兜。」ということで、どれが義貞の兜か見分けがつきません。そこで、後醍醐天皇が新田義貞に兜を授けた時に、天皇の女官をしていた塩谷 判官(えんやはんがん)の妻、顔世御前(かおよごぜん)が呼び出され、義貞の兜を見分けることになったのでした。
新田義貞(1300?〜38)とはどのような人物で、討死した時はどのような状況だったのでしょうか?
鎌倉時代の新田氏
新田氏(上野源氏)は、清和源氏(清和天皇の皇子を祖とし、源性を賜った一族)の主流をなす河内源氏の三代目源義家の四男・源義国の長子の新田義重に始まり、新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)を開発しました。すなわち、本来ならば義重の弟足利義康を祖とする足利氏よりも高い地位にあってもおかしくないのですが、義貞の時代には鎌倉幕府では日の目を見ず、義貞自身も無位無官でした。これについては、新田氏の祖である新田義重が源頼朝の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、幕府成立後には源義国の系統を束ねる棟梁としての地位が義重の弟足利義康の子足利義兼の系統に移り、新田氏のみならず源氏の系譜を持った武士をその支配下に置くという慣例が定着したためであるという説があります。
義貞が1333年に稲村ヶ崎を渡り、北条高時らの鎌倉幕府を攻め滅ぼしたことはよく知られています。この功により、義貞は足利尊氏、楠木正成らとともに後醍醐天皇の建武政権に取り立てられます。
足利氏と対立
やがて、新田氏は武家の主導権をめぐって足利氏と対立するようになります。尊氏と義貞は「後醍醐天皇に反逆の意がある」と互いを非難し、成敗するよう訴えます。義貞に足利尊氏・直義(ただよし)成敗の綸旨(りんじ:天皇の命令)が下り、義貞は天皇側の軍勢の総大将になります。義貞・楠木正成ら天皇側の軍勢は建武3年(1336)正月に一度は尊氏を九州へ追い払います。しかし、建武の新政で天皇からの恩賞に不満な武士の多くを味方につけた尊氏は九州を平定し、東上。足利氏は翌月には湊川の戦いで楠木正成を破って進軍し、義貞は敗走。足利氏は京都を奪還します。足利氏は比叡山に逃れていた後醍醐天皇と秘密裏に講和を進め、天皇は京都に帰還することを決意しますが、これを聞いた義貞の家臣 堀口貞満に「義貞に知らせることなく、義貞から尊氏に気持ちを移す天皇の無節操」を泣きながらに非難され、思い直します。
義貞の最期
義貞は恒良(つねよし)・尊良(たかよし)両皇子を戴いて、官軍であることを保証されて越前に下向します。建武政府の越前では国司に義貞の弟、脇屋義助、守護に堀口貞義が任命されましたが、内乱が始まってからは、足利方から斯波高経、ついで細川頼春が守護に補任され、新田方と抗争が続いていました。
建武5年(1338)5月、義貞は斯波高経の黒丸城(くろまるじょう)を包囲し、斯波方の城を次々と落としていました。同年閏7月、藤島城にたてこもる斯波方の平泉寺(へいせんじ)衆徒を新田軍が包囲、攻撃。義貞は応援のため50騎を率いて駆けつける途中、黒丸城から救援に来た細川出羽守・鹿草彦太郎の軍300騎に出くわし、歩射隊に田の中に追い落とされ、乱射された矢が当たり、自害したのでした。義貞の首は切り離されて京都に送られ、都大路を引き回しの上、獄門に懸けられさらし首となりました。
新田氏のその後
室町時代を通じ、新田氏の末裔は室町幕府を開いた足利氏側の北朝から見て「朝敵」「逆賊」として討伐の対象となりました。江戸時代には岩松氏、横瀬氏(由良氏)など新田氏の一族は細々と続きました。

明治時代になり、天皇が絶対君主となると、新田義貞は南朝に忠義を尽くした武将として讃えられるようになり、岩松氏と由良氏も義貞の子孫と認定されて新田氏に復姓しました。
義貞の兜

新田義貞の死から300年以上後、江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主 松平光通(まつだいらみつみち)に献上しました。象嵌(ぞうがん)が施された筋兜(すじかぶと:鎌倉時代後期から南北朝時代頃に発生した兜の一形式。星兜と異なり、兜本体(鉢)を形成する鉄板を接ぎ留める鋲(星)を見せず、鉄板の縁をねじり立て、接ぎ目を筋状に見せたもの。)で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範 井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家で保管されました。『仮名手本…』の作者もこのことを知っていて、大序に取り入れたのかもしれません。この兜は明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納されました。
 義貞所用と伝わる四十二間筋兜
(藤島神社蔵)
 
閉じる