くまどりん イヤホン解説余話
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「将軍江戸を去る」 歌舞伎座 昼の部

思い悩む慶喜

二条城で大政を奉還し、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜。今は江戸城を出て、上野寛永寺で謹慎中です。しかし徹底抗戦を叫ぶ彰義隊や主戦論者のため、その心は揺れ動く。もし将軍が主戦論に乗れば、大規模な内戦となって、列強の侵略を招きかねません。
鬼鉄の涙

その将軍を山岡鉄舟が命がけで説得するのが第一の見所です。鉄舟は鬼鉄と呼ばれ、無刀流を創始した剣豪。後に明治天皇の侍従となり、恐れ多くも相撲で投げ飛ばしてしまった、という剛毅な快男子です。 鉄舟は、大政奉還だけでは「尊皇」に過ぎない、城を明け渡し、戦争を回避して、国土領民を朝廷にお返ししてこそ、誠の「勤皇」だ、と熱涙を下して説く。

万感を胸に
その至誠にうたれた慶喜は、翌朝潔く、江戸を退去します。無辜(むこ、罪のない)の民衆の命を戦禍から守ろうとの両者の思いが大戦争を回避したわけです。
第二の見所は、万感を胸に夜明けの千住大橋を渡って行く、最後の将軍の姿です。近代日本の誕生を、祝福して江戸を去る。名せりふも楽しみな、清々しく感動的な幕切れです。
ハイカラな余生
その後、慶喜は政治的言動を慎み、趣味的生活で余生を送ったといいます。もともと開明的で、ハイカラな人だったようで、油絵や狩猟を楽しみ、写真を撮りまくったり、自転車で静岡の町を走ったりしたとも。

明治31年、かつて自分の居城であった皇居に招かれた時はさぞ感無量だったことでしょう。大正2年、77歳で亡くなりました。

慶応3年(1867年)大阪での慶喜
松戸市 戸定歴史館所蔵
 
「奥州安達原」 国立文楽劇場 第一部

辺境の民
その昔、都から遠い東北地方の、中央政権の支配が及ばぬ土着の民は「蝦夷(えみし)」と蔑まれ、平安初期、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に立て、これを征服。服従した蝦夷は、今度は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれました。
12年に及ぶ「前九年の役」
俘囚のうち有力な一族は、朝廷へ特産物を貢ぐことなどを条件に、俘囚の長として一定の支配権を持つことを許され、奥州の安倍氏、出羽の清原氏などがこれにあたりました。
その俘囚長だった安倍頼時は支配地域を拡げようとし、また納税しないなど反抗的だったため、朝廷は、1051年、源頼義を鎮守府将軍に立て、彼らを攻めはじめます。それから安倍一族が滅ぶまで12年に及んだ戦が「前九年の役」です。
伝説をアレンジ
『奥州・・・』は近松半二らによる合作で、この「前九年の役」の後日物語です。四段目『一つ家の段』は頼時の未亡人、岩手が、天皇の弟である環(たまき)の宮を誘拐し、宮をシンボルに据えて安倍氏を再興せんとするお話。このくだりは安達ヶ原(福島県二本松市)に伝わる「一ツ家伝説」が下敷きにされていて、その伝説は次のようです。

生肝を求めて

京の公家に乳母として仕える岩手は、手塩にかけて育てた主人の姫の病に、妊婦の生肝(いきぎも)が利く、と知ります。彼女は、幼いわが娘を都に残し、姫と共に、はるか安達ヶ原にたどりつき、そこの岩屋で暮らすことに。

仕留めたのは・・・
都を出てから十数年後の秋の夕暮れ、その岩屋へ若夫婦が立ち寄ります。妻はみごもっていて、急に産気づき、夫は薬を求めて出て行く。岩手はそのスキに出刃を振るって・・・。

ところが殺した女は、その昔別れた実の娘でした。ショックで正気をなくした彼女は、その後、旅人を次々に殺め、やがて熊野の僧、東光坊に滅ぼされました。
鬼気迫る
その鬼婆を葬ったとされるのが今もこの地に残る「黒塚」です。塚の側には平安期の歌人、平兼盛の「みちのくの 安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」の歌碑も建っています。お芝居で、妊婦を殺すシーンの浄瑠璃には「唱ふる口は耳まで裂け、安達原の黒塚にこもれる鬼と言ひつべし」と兼盛の歌が引用されていて、その語りはまさに鬼気迫ります。
同情的に
また、俘囚という差別的な身分に置かれ、ついには滅んだ安倍一族は、まるで白人に土地を追われたアメリカの先住民インディアンのようであり、このお芝居は、作者も彼らに同情的であることがうかがえる作品です。 
黒塚の碑(観世寺境内、福島県二本松市)
 
 
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