くまどりん イヤホン解説余話
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「壽曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」 歌舞伎座 夜の部

お正月にふさわしい
この演し物(だしもの)は様々な役柄が揃って華やかで、曽我十郎が松・竹・梅・鶴・亀などの作り物の載った島台を持って登場したり、お酒を振舞う場面があったり、工藤祐経が曽我兄弟にお年玉として狩場通行手形を与えたりとおめでたい雰囲気があふれた正月にふさわしいものです。
人物関係は?
「曽我十郎・五郎兄弟が父の仇を討とうと工藤祐経館にやってくる。源氏の重宝 友切丸を取り戻した兄弟に、工藤が富士の裾野の狩りでの再会を約束する」というあらすじはご存知の方も多いかもしれませんが、それぞれがどういう人物でどのような関係なのかはあまり知られていないのではないでしょうか。ここで紹介します。
- 工藤祐経・近江小藤太・八幡三郎 -
工藤は伊東荘の領主、伊東祐親の娘婿でしたが、祐親の嫡子(ちゃくし、跡取り)である河津三郎と所領争いを演じていました。工藤はさらに、病死した親の所領を祐親に横領されたため、安元2年(1176)10月、伊豆奥野の狩の帰り道、祐親と河津三郎の父子を家臣の大見(舞台では近江)小藤太と八幡三郎に狙わせます。このとき河津三郎は八幡が射た矢が命中して、落命。河津の遺児、一万(後の曽我十郎祐成、5歳)、筥王(はこおう、後の曽我五郎時致、3歳)は、父の仇、工藤を17年後に討ちます。
舞台で工藤の傍らにいる近江小藤太は曽我兄弟の祖父を負傷させ、八幡三郎は兄弟の父を射殺したのです。
- 小林朝比奈・舞鶴 -
舞台では曽我兄弟が工藤に会えるよう手引きをする道化役の小林朝比奈。代わりに朝比奈の妹 舞鶴が登場することもあります。
小林朝比奈は、史実では、和田義盛の子で、勇猛、大力で知られ、鎌倉の朝比奈切通しを一夜で切り開いたとされる朝比奈三郎義秀に当ります。父 義盛が執権、北条義時の度重なる挑発に反発し、幕府を攻めた時には大いに活躍。多くの御家人を斬り伏せます。一族が次々に討死した後、船6艘に残った500騎を載せ、房総半島の南端にあった所領、安房国の朝夷(あさい)へ逃れ、その後は不明。
- 鬼王新左衛門 -
この演し物には出てこない道(団)三郎とともに兄弟で曽我兄弟に仕えました。鬼王は源氏の重宝、友切丸という刀を取り戻し、兄弟に届けますが、兄弟の仇討ちには同行させてもらえなかったといわれています。

ちなみに『一條大蔵譚』で一條大蔵卿が義経に渡すようにと吉岡鬼次郎に託すのも、『助六』で花川戸助六(=曽我五郎)が探しているのも友切丸です。
- 梶原平三景時・梶原平次景高 –

梶原景時には一般に「源義経を讒言(ざんげん)で陥れた大悪人」というイメージがあり、この演し物でも赤っ面、敵役の扮装で登場。平次景高は景時の次男。同じく敵役の姿です。
史実によると景時は人望ある畠山重忠を陥れようとしたとして鎌倉幕府の御家人たちの反発を買った一方、曽我兄弟の赦免を願い出たとのこと。
- 大磯の虎・化粧坂の少将 -
曽我十郎は大磯の虎、五郎は化粧坂の少将という遊女を恋人にしていたことになっています。
「曽我物語」は兄弟の死後、大磯の虎が全国各地を巡礼して歩いたとしていますが、その実像を伝えるものは残っていません。化粧坂の少将は仮名本「曽我物語」で五郎の恋人として書き加えられたもの。
箱根の芦ノ湖の手前、精進池の付近に曽我兄弟の墓と大磯の虎の墓(五輪塔)が並んでいます。

このような人物関係も知ってご覧になると一味違った楽しみ方ができることでしょう。

箱根に建つ曽我兄弟と虎御前の墓

 
 
「寿柱立万歳(ことぶきはしらだてまんざい)」 国立小劇場 第一部

お正月の芸
タイトルにある「万歳」は、お正月に太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)のコンビが家々を廻り、おめでたい口上や舞を披露してご機嫌をうかがう芸能です。その起源は、新年に歳神(としのかみ)が家々を廻って祝福するという古代からあった信仰ではないかといわれます。ちなみに、歳神が降り立つのが「門松」で歳神へ供えるのが「鏡餅」です。
柱立て万歳とは柱立て(家屋の建築で初めて柱を立てること)にちなんだ万歳唄を伴うものですが、ここでは一般の萬歳(万歳)について考えてみましょう。
千秋萬歳と声聞師
平安中期には「千秋萬歳(せんずまんざい)」という芸能が成立。これは宮中で天皇の長寿を願い、祝って奏された雅楽の「千秋楽(せんずらく)」と「萬歳楽(まんざいらく)」が源であろうというものです。この「千秋萬歳」を専門にする人たちを「声聞師(じょうもんじ)」といいました。彼らは正月に、貴族の屋敷を訪れ、祝辞を述べ、舞を舞うようになり、鎌倉時代には、勢力のある武家や寺社、室町期からは庶民の家も訪れるようになったのだとか。声聞師は陰陽師(おんみょうじ。占星、呪術、祭祀の専門家)の配下だったので、宮中で秘術とされた陰陽道の占いや儀式も、彼らとともに庶民に拡がったともいわれます。

尾張へ移住

声聞師の本拠地は京でしたが、1593年に豊臣秀吉が彼らを、荒地を開墾させるため、尾張(今の愛知県西部)へ強制移住させました。
秀吉の死後、一部は京へ戻りましたが、多くは尾張にとどまり、なかには東隣の三河へ移った者もいて、その人々が「尾張萬歳」や「三河萬歳」の祖となりました。

さらにこれらは各地へ伝わり、尾張系の「伊予萬歳」、三河系の「会津萬歳」、「秋田萬歳」、また尾張、三河とは系統が異なる「越前萬歳」や、その系譜を引く「加賀萬歳」などが生まれます。
三河を優遇
江戸時代には、彼ら萬歳師は全国の陰陽師を支配、管理した土御門(つちみかど)家の免状を持って、全国を廻りました。三河萬歳は、徳川家康が三河出身であることから、優遇され、彼らだけは武士のように刀を携え、大紋(だいもん、武士の礼装)を着ることを許されたといいます。

今に伝わる三河萬歳(愛知県額田郡幸田町)

 

河内音頭に取り入れる
明治以降、萬歳の一部は娯楽の要素を打ち出して命脈を保ったものの、多くは衰えてしまいます。そんななか、明治の中頃に大阪で、玉子屋円辰(えんたつ)という人が河内音頭の間に萬歳をはさむということをして、明治38年に「名古屋万歳」を旗揚げしました。さらに彼は民謡や浪花節など新しく面白い芸をどんどん取り入れ、その内の、いわゆる「軽口(かるくち、冗談やダジャレを交えた話術)」が、やがて“ 漫才 ”になったのだそうです。
お正月の定番
「萬歳」が時代とともに変化したように、「漫才」も、最初は軽妙なシャベリの掛け合いだったのが、テレビが出現したこともあって、いろんなスタイルが生まれました。今や“ MANZAI ”であり、シチュエーションを設定したコントも人気ですね。

「笑う門には福来る」とお正月のテレビはお笑いのオンパレードです。日本の新年は「昔も今もマンザイ」が定番のようで。
 
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