保元の乱(1156)、平治の乱(1159)で平清盛が力を得、長成が仕える天皇が力を失っていったので、長成はこの演し物で見られるように、平氏をよく思っていなかったことでしょう。
一條大蔵卿は強大な平氏の権勢の世では本心を隠し、吉岡鬼次郎を介して、義子、義経に友切丸とともに希望を託したのでしょう。
― 常盤御前
常盤御前(ときわごぜん)は近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女で、後に源義朝(みなもとのよしとも)の妾(側室)となり、今若、乙若、そして牛若(後の源義経)を産みました。夫、義朝は平治の乱で平清盛と戦い、敗死します。
室町時代に成立した『義経記』では、「常盤が清盛の妾になることを条件に子供達が助命されることとなった」とあります。しかし、鎌倉時代に成立した『平治物語』では、「常盤と清盛が男女の関係となり一女をもうけた」という内容は記されていますが、常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されていません。
常盤は後に清盛から離れ、一条長成に嫁ぎます。
この演し物で常盤御前が平清盛を夫、義朝の仇として楊弓の的にするほど憎んでいるとされているのは『義経記』の影響なのでしょう。
したたかに生きる
このように長成と常盤は生きにくい世をしたたかに生き抜いています。これはいつの時代にも大なり小なり通じるので、この演し物は共感され、人気があるのでしょう。
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