くまどりん イヤホン解説余話
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「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」 歌舞伎座 夜の部

加賀と近江
鶴屋南北(初演当時は勝俵蔵)・二世桜田治助・福森久助ほかが合作した『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』は加賀前田家の一門、前田大学之助が仇討にあったという話を基にしています。お話は「多賀家」の出来事という設定により「加賀家」を、主人公を「左枝大学之助」とすることにより「前田大学之助」を、多賀家の主を「鏡山の殿さま」と呼ぶことにより「加賀の殿さま」を暗示しつつ、多賀大社、鏡山という地名を用いることによって、前田家をはばかって、お話の舞台を巧みに近江国(おうみのくに。現在の滋賀県)に移しています。
また、序幕の水門の用水桶や陣屋の襖に見られる多賀家の家紋が前田家と同じ梅鉢になっていることよっても、加賀前田家の事件を基にしていることが暗示されています。
合法庵室(がっぽうあんじつ)の場
さて、この演し物の題名の中に「がっぽうがつじ」とありますが、これを聞くと能「弱法師(よろぼし)」や説経節「しんとく丸」
「愛護の若」 を結びつけて作られた『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』を思い浮かべる方が多いかもしれません。その中の「合邦庵室の場」はしばしば上演されます。
今回上演される『絵本…』はこの『摂州…』初演から37年後、文政7年(1810)に初演されました。こちらも大詰に「合法庵室の場」があります。この場面は
・合法(邦)という名の僧の住まいに、世を忍ぶ病人が匿われていること
・場面の最後で合法(邦)に身近な人が死を迎え、死に際に悔いが残ること
が『摂州…』「合邦庵室の場」と共通していて、作者(この幕は福森久助)はこの場を『摂州…』のパロディーとして作ったと思われます。
合法辻閻魔堂(がっぽうがつじえんまどう)
『摂州…』では「合邦庵室の場」より前に「天王寺万代池の場」があり、合邦が閻魔堂建立の勧進をするという場面がありますが、これは合法辻(がっぽうがつじ)にあった閻魔堂を下敷きにしています。合法辻とは現在の下寺町筋(松屋町筋)と国道25号線の交差点(大阪市浪速区下寺三丁目。四天王寺の西、約300m)にあたり、ここに閻魔大王像を祀った閻魔堂が建っていました。ここは仏教を取り入れようとした聖徳太子が仏教に反対だった物部守屋(もののべのもりや)と仏法について論じた場所で、立派な伽藍があったとの事ですが、兵火に遭い、その後、道路拡張のため、閻魔堂は今では近くの西方寺境内に移築されています。江戸時代後期に刊行された「摂津名所図会」にはこの閻魔堂の絵図が掲載されていて、当時の様子がしのばれます。
閻魔の力を借りて
また『絵本…』では「合法庵室の場」で、四天王寺で稽古している篳篥(ひちりき、雅楽で奏する笛の一種)の音が聞こえてくることから、こちらも大坂の四天王寺近くにある合法辻閻魔堂がモデルであることがわかります。『絵本…』では、閻魔堂は修行僧 合法(がっぽう)自身が造った閻魔王の像を祀る堂という設定です。合法は日本の諸々の神様、とりわけこの閻魔王の力を借りて、仇討ちを成就しようとするのです。

閻魔と地蔵
さて、江戸時代には、閻魔大王を祀った閻魔堂が各地に沢山あり、人々の信仰を集めていました。東京23区には深川閻魔堂をはじめ、今でも閻魔像や奪衣婆(だつえば。亡者が渡るとされる三途の川の岸にいて、その衣服をはぎ取る老女の鬼)像を祀る閻魔堂が44か所残っています。
閻魔大王というと「地獄で亡者を裁き、嘘をつくと舌を抜く、恐ろしいだけの存在」と思う方が現在では多いかもしれませんが、当時は必ずしもそうではなかったようです。

中国では唐(618~907年)末期に作られたとされる「預修十王生七経」により、地獄を支配する十人の王が信仰され始めます。この十王信仰は日本では平安時代末期に始まり、「地蔵菩薩発心因縁十王経」により、さらに盛んになったといいます。
これは、衆生(しゅじょう。人間をはじめとするすべての生き物)はよほどの善か悪でなければ、死後に初七日から三回忌まで、順次この十王の裁きを受けるという信仰です。十王の本地(ほんち。本来の姿)として、各々に菩薩が割り当てられ、閻魔王の本地は地蔵菩薩とされました。そのため、十王のうち、「地蔵は衆生を様々な苦しみから救ってくれる」という「地蔵信仰」と結びついた閻魔にのみ人気が集まって大王と呼ばれ、各地に閻魔を祀る閻魔堂が立てられ、人々の畏敬を集めたのです。
年に2回、1月16日と7月16日は地獄もお休みで、責め苦を受ける亡者にも休みが与えられました。江戸時代の奉公人はこの日を藪入りといい、親元に帰り、閻魔詣でをしたとのことです。

成相寺の閻魔像
 
 

「義経千本桜」道行初音旅 国立文楽劇場 第1部

鼓とニセ忠信
源義経は、兄の頼朝からうとまれ、都落ちすることになりました。義経はその際、愛妾(あいしょう、愛人)の静には辛い思いをさせたくないと彼女を都に留めました。お芝居ではこの時、義経は静に大切な「初音(はつね)の鼓」を自分の形見として託し、家臣の佐藤忠信をお供につけます。忠信は兄の継信とともに源平合戦で活躍し、義経を助けた忠臣ですが、実は、この時、静の供になった忠信はその本当の忠信ではないのです。
初の歓声
さて初音の鼓は、古く桓武天皇の御世に、雨乞いに使われました。ひどい日照りが続くなか、その鼓を打ち鳴らすと、果たして恵みの雨が降りそそぎ、民が初めて喜びの声をあげた。そこで鼓は初めての声という意味合いの「初音」と名付けられ、以後、宮中深くしまわれていたのです。
打つ=討つ

時代は下り、義経は初音の鼓で雨をコントロールできれば戦に有利だと考え、後白河法皇から鼓を賜ります。この時、左大臣の藤原朝方(ともかた)は「鼓を打つ=頼朝を討つ」ことであり、それは法皇のお心だ、と義経に迫ったのです。朝方は兄弟をさらに争わせ漁夫の利を得ようとしたのですが、それと察した義経は、自らは鼓を打たぬと誓い、静に託したわけです。

忠信の正体は
やがて静は義経が吉野に潜んでいるとの噂をたよりに、初音の鼓を携え、忠信を供に吉野へ向かいます。その道中の様子を描いたのが『道行初音旅(みちゆきはつねのたび)』で、「初音」はもちろん、くだんの鼓を指します。そして静と義経は吉野の河連法眼(かわつらほうげん)の館で晴れて再会。さらにここで忠信の意外な正体が明かされます。
初音の鼓には齢(よわい)千年を経た夫婦の狐の皮がはられていて、実は忠信は…。

落語版忠信
文楽や歌舞伎の人気演目や場面はパロディー化され、落語のネタにもされていて、『義経…』のこの段のお話をひねった上方落語に「猫の忠信」があります。こちらに出てくるのは鼓ではなく“ 猫の皮をはった三味線 ”です。まぁ、三味線に猫の皮をはるのは珍しくもないのですが、このお話の三味線はネズミ退治のために特別にあつらえられたという設定。
静が似合う
三味線にされた親を慕って、子猫が持ち主の浄瑠璃(じょうるり、語り芸の一種)の女師匠、お静の前に人の姿で現れる。やがて正体がばれるが、折しも師匠宅では浄瑠璃の会が催されることになっていて、演し物は「義経千本桜」。集まった面々は、ちょうど狐の忠信のように子猫が現れるとは幸先良し、と大喜び。
一同から「師匠は名もお静だから、静の役を」と勧められたお静が「こんなお多福には似合わないヮ」と謙遜すると、子猫が顔を上げて“ ニァウ ”。

佐藤忠信(歌川国芳画)
 
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