くまどりん イヤホン解説余話
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「河内山(こうちやま)」 大阪松竹座 昼の部

講談をもとに
このお芝居の基は幕末~明治期に活躍した二代目松林伯円(しょうりんはくえん)が作った講談「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」です。これは幕末、天保の世をにぎわせる河内山宗俊・片岡直次郎・金子市之丞・森田屋清蔵・暗闇の丑松・遊女、三千歳の六人が主人公。もちろんこのタイトルは平安朝の和歌の名手たち「六歌仙」をもじったものです。伯円は講談中興の祖といわれるほどの大立者で、白浪物(しらなみもの。盗賊を主人公とした出し物)を得意としたため、「泥棒伯円」と呼ばれました。
激動期を騒がせる
河内山と片岡は実在したそうですし、他の面々もモデルがいたと思われます。

当時は老中、水野忠邦が「天保の改革」を図り、幕末の足音が聞こえる変革、激動期。実際 “ お騒がせ人間 ”は多かったのでしょう。浪花節などで人気を得た「天保水滸伝」は博徒、笹川繁蔵と飯岡助五郎の姿を描いています。

胸のすく不良坊主
河竹黙阿弥はこの「天保六花撰」を脚色し、「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」を書きました。「河内山」は、そのうち、河内山宗俊が、江戸城の御数寄屋坊主(おすきやぼうず、僧籍の公務員で将軍直参)という身分を笠に、ケチな質屋から大金をせしめるべく、名門大名邸へ乗込み、大名をもへこませる、という痛快な一幕です。
このお話は河内山が実際に起こした事件らしく、他に御三家、水戸の藩士に美人局(つつもたせ)をし、金を脅し取ったことも。


二代目松林伯円。新政府の方針で代表的な
芸人に教導職が与えられた、大講義の姿。
 

芝居の文明開化
初演された明治14年頃は文明開化、西欧化の一環「演劇改良運動」が盛んで、旧来の歌舞伎は古臭いものとされ、黙阿弥作品も槍玉にあがったといいます。九代目市川團十郎などは芝居を高尚にしようと、それまでの荒唐無稽なものに代る、「活歴(かつれき、活きた歴史)」、史実に忠実な劇を始めました。
やっぱり江戸が・・・

ただ実のところ、大衆は江戸の芝居を愛し、懐かしんだようです。「悪に強きは善にもと・・・」と作者お得意の七五調名セリフも聴けるこのお芝居。観客は江戸への郷愁を誘われたのか、黙阿弥が自身の手記「著作大概(ちょさくたいがい)」に“ 極大入 ”と記したのは後にも先にもこれだけ、という大当りだったといいます。
 
「卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」 大阪国立文楽劇場 第2部

この演し物は『祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)』として、宝暦10年(1760)に初演されました。当時、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人(しんらんしょうにん。1173~1262)の500回忌を迎え、「親鸞記もの」が流行していましたが、東本願寺(ひがしほんがんじ。浄土真宗の二派のうち、内部対立を煽るために江戸幕府が支援した側。浄土真宗本願寺派)の訴えに応じ、江戸幕府は親鸞伝を扱う興行・出版を一切禁じました。『祇園…』もそうした点に配慮し、親鸞聖人の弟子 平太郎と後白河上皇が建てさせた三十三間堂の棟木の由来のことを、それ以前の白河法皇の時代に置き換えて描いています。

文政4年(1821)に、柳の精 お柳が子と別れる悲しみを扱った三段目のみが『卅三間堂棟由来』の題で上演され、その後はほとんどその形式で演じられています。

三十三間堂
京都東山にある三十三間堂は、堂内に1001体の仏像が並ぶ壮麗さが他に類を見ないもので、天台宗の寺院 妙法院の一部です。
このお堂が建てられたいきさつについては、以下のようなお話が伝えられています:
後白河上皇は長年頭痛に悩まされていました。熊野詣の折に出たお告げに従い、洛陽因幡堂(らくよういなばどう。現・京都市下京区にある真言宗のお寺)に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊(れんげぼう)という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げました。上皇が岩田川(現在の富田川(とんだがわ))を調べさせるとお告げの通りだったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を三十三間堂の梁(棟木)に使ったところ、上皇の頭痛は治った、というものです。

『卅三間堂…』はこの言い伝えが脚色されたものです。白河法皇の頭痛の基となっていた柳の木(柳の精 お柳)が、三十三間堂建立のために、子と引き離されて都へ曳


三十三間堂、京都市
かれていくことになりました。その時、柳の木は我が子みどり丸との別れを悲しんで動かなくなりますが、みどり丸が「木遣り唄」を唄うと動き始めるというお話です。
歌川広重
「東京八代洲町警視庁火消出初階子乗之図」
(国立国会図書館所蔵)



木遣り唄
さて、前置きが長くなりましたが、ここから「木遣り唄」とはどのようなものかを考えてみます。
木遣りとは元々、木を「遣る」、すなわち「前に進ませる」ことで、一人や二人では動かすことができない大木を、大勢の人が力を合わせて運ぶ時に唄われるようになったものと考えられます。大勢の人足が音頭取りの音頭に合わせて、綱を引っ張り、木を運んでいきます。木遣り音頭は隅々まで聞こえるように、高くて良く通る声で唄われます。この演し物に出てくる木遣り唄はこの元々の使われ方をしています。長野県諏訪大社の由緒あるお祭り「御柱祭(おんばしらさい)」では、「山出し」「里曳き」など山から伐り出したモミの大木を神社へ曳いていく時に「木遣り音頭」が唄われていて、これも元々の意味の「木遣り」と言えます。
「木遣り」はその後、「土搗き・石搗き(基礎の地盤を突き固める)」「棟上げ(棟木を持ち上げて組み立てる)」「舟卸し(新造した舟を進水させる)」「漁猟(獲物や舟を浜辺に曳き上げる)」などその他の力仕事の時にも唄われるようになりました。
祝儀木遣り唄
さて「木遣り」というと、今では「祭礼や儀式の際に唄われるもの」というイメージをお持ちの方も多いかと思います。これはなぜなのでしょうか?
江戸時代になって治安がよくなり、庶民も寺社詣りという口実で、旅ができるようになりました。中でも伊勢神宮へのお詣りは、「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも♪」と伊勢音頭に唄われているように、大流行しました。そして、お伊勢参りをした人たちによって、伊勢音頭が全国へ広まり、「ヤートコセー」「ヨーイヤナー」など、その囃し言葉が木遣り唄へ取り入れられていき、木遣り唄は祭礼や宴会・儀式の時など、力仕事以外の時にも唄われるようになりました。これを「祝儀木遣り唄」と言います。

江戸の火消(鳶職)の間で唄われ始めた「江戸木遣り唄」は、この「祝儀木遣り唄」の代表的なもので、出初式(でぞめしき。消防関係者の仕事始めの行事)で梯子乗りを披露する際などに高らかに唄われました。歌舞伎舞踊『お祭り』などに、そうした様子が見られます。
 
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