くまどりん イヤホン解説余話
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「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ) 道明寺(どうみょうじ)」  歌舞伎座 昼の部

道明寺の成り立ち
醍醐天皇、宇多上皇の御代、藤原時平の讒言により、九州 太宰府へ左遷されることになった菅丞相(菅原道真)はその途中、伯母 覚寿に暇乞いをするのが、この場面。菅丞相が自ら彫った自身の像が様々な奇跡をなします。
覚寿が尼となって暮らしていたのは道明寺(大阪府藤井寺市)で、このお寺は古くは土師氏の氏寺で土師寺と呼ばれました。菅丞相は深く帰依し、しばしば訪れ、36歳の時に十一面観音(この像は道明寺の本尊で、国宝に指定され、毎月18、25日に拝観できます。)を彫刻し、40歳の時には五部大乗経を書写しました。
菅丞相は太宰府への左遷の途次、寺に立ち寄り、覚寿尼に決別し仏舎利五粒を残し、自像を彫刻し、鶏鳴に驚き出立したとされ、それが『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場に描かれています。
菅丞相が太宰府で薨去した後、講堂の後方に神祠を建て、自刻の像を安置し御神体とし、土師寺は道明寺と改称されました。その後、真言宗の寺院として、京都の堂上公家出身の尼僧の住職により代々守られてきました。

道路を挟んで道明寺の東隣に道明寺天満宮があり、菅原道真公、天穂日命(あめのほひのみこと。天照大神の御子様)、覚寿尼が御祭神として祀られています。明治5年まで道明寺があったのはこちらの場所です。明治時代になって、神仏分離により、道明寺は現在の位置に移されました。
菅丞相の自像
菅丞相が太宰府へ左遷される途中、立ち寄った折に彫刻したとされる自像は道明寺天満宮に伝わったようですが、現在は同神社の宝物館でも見られないようです。
太宰府天満宮の南西約5㎞(福岡県筑紫野市)に九州最古の寺、武蔵寺(ぶぞうじ)があります。菅原道真公が武蔵寺に参詣された時、自ら像を刻んだことが武蔵寺縁起に書かれており、今ではその像(道真公の自像)は武蔵寺の近くにある御自作天満宮の神体として祀られていて、1月、4月、10月の25日に「御開扉(ごかいひ)」の催しがあり、その貴重な神体を拝むことができます。2019年10月25日に訪ねてみたところ、妙なる雅楽が流れる中、幕の後ろにある神体を参拝することはできましたが、神体(道真公の坐像)自体を見ることはできませんでした。展覧会などの折に出品されれば見られるようなので、その機会に見逃さないようにしたいものです。

天拝山
御自作天満宮は、道真公が無実を訴えるべく何度も登頂し、天を拝したといわれる天拝山頂の祠の下宮に当たります。天拝山の麓(この神社)から山頂に向かう登山道(天拝山「開運の道」)には一合ごとに、道真公の詠んだ歌(菅原道真公 天拝山(天判山)にての御詠歌集より)の碑が設置されていて、「無実の私がなぜ流罪に…」とすすり泣くような、道真公の心情が感じられます。例えば、二合目は
「憂しといふ 世に住みながく 露の身の 消てはかなき 身をややつさん」
(訳)思うようにならないつらい世に永く住んでしまった私、この身は はかなく消えてしまう露のようなもの、ああ、いっそ露になりたいものだ。

私が訪ねた時は、歩き始めて少し経つと、しとしとと雨が降り出し、登るにつれて雨足は強くなり、山頂ではしばらく大雨が続きました。さながら道真公の流れ溢れる涙が大雨となり、時を越えて、それを追体験したように思いました。
一方、麓には五言絶句の漢詩「自詠菅公」(『菅家後集』)を彫った石碑も見られ、その二十文字の書体の中に18羽の鳥が隠れているとされ、「鳥のように飛んで都に帰りたい」という道真公の心情が表れているようです。



天拝山頂からの眺め

離家三四月 落涙百千行 萬事皆如夢 易易仰彼蒼
読み下し: 家を離れて三四月 落つる涙は百千行 萬事 皆夢の如し 易易彼の蒼を仰ぐ
文意:二月の初め、住み慣れた紅梅殿を離れ、早三四月経ったようです。
何故か涙がとめどなく流れ溢れます。
今までの総ての事は夢であったのでしょうか。

ともすれば、蒼い空を仰ぎ、総ては天の定めかと想いに耽っています。

天拝山の段
悲しみに暮れ、諦めもみられる道真公が遺した詩とは対照的に、『菅原伝授手習鑑』では、菅丞相が「時平が皇位を望み、邪魔になる菅丞相を除こうとした」たくらみを聞き知ると憤怒の形相になり、天拝山頂で雷神になる場面(文楽では四段目「筑紫配所の段」(あるいは「天拝山の段」)、歌舞伎では「天拝山の場」)があります。これは道真公が流罪先の太宰府で亡くなった後、藤原時平の病死、清涼殿に落雷、醍醐天皇の崩御など、都で変事が相次ぎ、道真の怨霊によるものとされたことによると思われます。

「天拝山の段」(「天拝山の場」)はめったに上演されないので、いつか観てみたいものです。
漢詩「自詠菅公」の石碑
 

「道行故郷の初雪(みちゆきこきょうのはつゆき)」 歌舞伎座 夜の部
「傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)」 国立小劇場 第三部

封印切の果てに
文楽『傾城恋飛脚』は、近松門左衛門が実際の事件を脚色した『冥途(めいど)の飛脚』を、菅専助と若竹笛躬(ふえみ)がさらに改作した作品。今回上演される「新口村の段」は「新町の段」(歌舞伎『恋飛脚大和往来』(これも近松の『冥途・・・』の改作)では「封印切」)の続編で、二人が忠兵衛の故郷、大和の新口村(現、奈良県橿原市新口町)へやってきた場面です。

また、歌舞伎座 夜の部 『道行故郷の初雪』は『恋飛脚大和往来』「新口村の場」を清元舞踊化したものです。

大衆向けに改作
「新口村の段」では二人と父親の最後の交流が描かれます。近松の原作は雨からアラレになる空模様を背景にしていますが、改作は雪が降ります。前の封印切のくだりも、原作が忠兵衛の人間的弱さを強調しているのに較べ、改作は登場人物を、お話をより

ドラマティックにするキャラクターに設定。たとえば忠兵衛が封印を切るにいたる口論の相手、八右衛門は、原作では、忠兵衛がこれ以上深みにはまらぬように、と彼を思いやる人物ですが、改作では敵役にしています。改作の方が大衆受けするつくりのようです。
ペアの衣裳で

この段の梅川、忠兵衛のこしらえは黒地に梅の花と流水の裾模様というペア、「比翼(ひよく)」の着流しです。
比翼は一目一翼の雌雄の鳥が離れず飛ぶ様のことで、男女の仲の良さを象徴する言葉。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋をうたった白居易(はくきょい、白楽天とも)の「長恨歌(ちょうごんか)」に“ 天にあらば比翼の鳥 ”とあることでも知られています。
人目を忍ぶ逃避行にお揃いの着物でもないでしょうが、離れがたない二人の仲を美しく表す工夫ですね。

返り咲いた梅川?
史実では、二人は捕えられ、忠兵衛は死罪になり、梅川は、尼になって彼の菩提を弔ったとも、新町の廓に返り咲いたともいわれます。梅川は忠兵衛が横領した金で身請けされたわけですから、廓へ戻されたという説が頷けますし、そう記された書物もあるそうです。

梅川・忠兵衛の墓(大阪市天王寺区城南寺町)
 


 
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